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物語編

第一章 第五五話 問答編

マサシ 意志(イシ)とは、どういうものですか?

 

アキラ 意志は、結果を選ぶ、自我の意であり、
    想像して、自我が望む、偶然の利である。
    例えば、Aを望んで、Aに臨んでいるとき、
    自我と自然が一致して、自我は安堵を感じる。

 

マサシ 意思(イシ)とは、どういうものですか?

 

アキラ 意思は、結果を択ぶ、自然の意であり、
    創造して、自然が臨む、必然の理である。
    例えば、Aを望んで、Aに臨んでないとき、
    意志と意思が乖離して、意識は不安を感じる。

 


 

クシマ 弥勒菩薩に為りたいと、思っています。
    生きとし生ける者に、弥勒を伝えたいと。
    そして、そのためには、矛盾する様ですが、
    自分は為れなくとも、善いとも思っています。

 

マコト 弥勒の世に、引き寄せられてくる魂は、
    貴方のように、自分の損得など省みずに、
    利他に歓喜する、愛すべき苦労人たちです。
    他が評価しない分、神は大事に認めています。

 

    とはいっても、真我は見守るばかりで、
    労いの一つさえ、あなたには与えません。
    時には、見捨てられているのではないかと、
    疑いの思いが、湧き上がることもある筈です。

 

    孤独で、泣きたいことも有るでしょう。
    不条理で、怒りたいことも在るでしょう。
    しかし、これらを全て飲み込み、感謝する。
    これこそ、我らに課された、弥勒の修行です。

 

    この、三千世界で、最も貴い生き方を、
    あなたの美学を以って、追求して下さい。
    ここに、無駄な議論など、必要ありません。
    実践あるのみ、一日一生を積み重ねて下さい。

 

    全身全霊をして、真理を修めて下さい。
    神に言われる前に、神の意を適えられる、
    菩薩の智と徳が、端的に明かされています。
    完全に理解した者は、弥勒菩薩そのものです。

 


 

サヌキ 近ごろ、自分の深い意識に眠っている、
    隠された問題点を、わざわざ掘り起こす、
    明らかな意思を、感じるようになりました。
    確かに失敗しますが、清々しさに包まれます。

 

マコト あなたは、谷底に突き落し気づかせる、
    神の慈悲を、観じられる様になりました。
    そこに至るため、相当な試練があったはず。
    真我以外のものは、全て崩れ落ちたでしょう。

 

    現在、外に現われている、神の意思が、
    この先、あなたの器が、大きくなるほど、
    空になった、内に表われるようになります。
    次は、内なる神を悟るまで、精進して下さい。

 


 

エリカ 現実に起こる事を、受け容れていれば、
    深層の望みが、見えて来るらしいですが、
    受け容れることと、受け身で生きることは、
    どちらも同じに見えますが、何が違いますか?

 

マコト 有り難く思うか、有り難く思わないか。
    つまり、感謝の有無が、異なっています。
    感謝が伴なうと、積極的に受け容れていて、
    感謝が伴わないと、消極的に受け流してます。

 


 

タンバ 今回は、三千世界に及ぶ、改革なのですか?

 

マコト 菩薩が生まれると、欲界に及びますが、
    菩薩が誕まれないと、人界に止まります。
    人類が、天人に救いを求めているようでは、
    天人の師と成れず、人界の掃除に終わります。

 

タンバ 天人は、救う側ではなく、救われる側ですか?

 

マコト 天魔の後詰め、天人を改心させるには、
    彼らが、巣食おうとする、人間の中から、
    天人を凌ぐ菩薩が、現れるしか在りません。
    天人の想像を越えず、弥勒の創造は無いです。

 

タンバ 弥勒の世の創造が、日本から始まるのですか?

 

マコト 日本から、弥勒の世は、始まりますが、
    外国に染まったり、宇宙に焦がれたりと、
    この期に及んで、外に心が向かう若さでは、
    日本に居ようとも、弥勒菩薩に気づきません。

 


 

イナバ 我が意志と神の意思の、区別が消えました。

 

マコト 恰も、自分の顔は、自分では見えず、
    透明な、鏡を使って、観ているように、
    逆に神も、自分の事は、自分では見えず、
    色が着いた、人を遣って、観ようとします。

 

    つまり、畏れるべきは、神の意思は、
    人の意志に、委ねられていることです。
    この事は、顕界の人類に限った事であり、
    天人や幽霊、幽界の存在には有り得ません。

 

    これを認められない、未熟なる人は、
    我が意と神の意が、乖離しているため、
    意に逆らう者として、神を見ていますが、
    それこそ、鏡を通して、我を観ただけです。

 

    これを見とめられる、成熟した人は、
    我が意と神の意が、合致しているため、
    意に従がう者として、神を見ていますが、
    そのまま、鏡を通して、我を観ただけです。

 

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