第六章 第五八話 問答編
マサシ 最後の仕組とは、どういうものですか?
アキラ 最後の仕組とは、最後の仕掛けであり、
選民思想が陥りやすい、最大の罠のこと。
選民を自負している、神に忠実な善人ほど、
最後の最後で、神を呪って、魔に堕ちやすい。
マサシ 選民(センミン)は、どういうものですか?
アキラ 選民は、特別である、民のことであり、
自ら、特別と考えない、民のことである。
誰もが、選ばれていると、考えているため、
択ばれていると、考えないと、選ばれている。
マサシ 賤民(センミン)は、どういうものですか?
アキラ 賤民は、特別でない、民のことであり、
自ら、特別と見とめる、民のことである。
誰もが、選ばれていると、考えているため、
択ばれていると、考えるなら、選ばれてない。
ナラ この場に、招かれているということは、
弥勒の世に、導かれるということですか?
マコト 魚座の時代に、未練が残っている方は、
水瓶座の時代の、招待を受けはしません。
しかし、招待され、慢心を抱いているなら、
それこそ、二千年前、魚座の世に逆戻りです。
水瓶に至るには、全ての仕掛けを解き、
総べての仕組みを説く、必要が有ります。
この選民の仕掛けも、その中のひとつです。
使い古された罠ですから、躓かないで下さい。
コウラ 型を演じる者は、特別扱いなのですか?
マコト 菩薩は、人々の間で、型を演じるため、
人間界に、使命を受け、生まれて来ます。
元より、この型には、善悪は在りませんが、
人の目には、善にも映れば、悪にも写ります。
もし、菩薩が、欲に塗れて、命を忘れ、
この型を、思いのままに、演じるならば、
後から、善には善が、悪には悪が返ります。
即ち、善が返らないと、善いと見とめません。
一方、菩薩が、欲を越えて、命を悟り、
この型を、在りのままに、演じるならば、
後から、善にも徳が、悪にも徳が還ります。
即ち、何が還ろうとも、良いと認められます。
即ち、報いるなら、必ず、酬いられる。
これは、型だろうと、例外を認めません。
それゆえ、菩薩と雖も、一蓮の托生であり、
人間として、生れた限り、後戻り出来ません。
コウラ 人の手本となるべき、高い次元からの魂が、
我が儘に振る舞うのは、許されないのですか?
マコト 善い業につけても、悪い業につけても、
影響が大きいだけに、果報も大きいです。
菩薩も、命を違えれば、地獄から遣り直し。
菩薩なら、そう覚悟して、命に臨んでいます。
ナガト 日々、感謝を続けて、成長が出来ましたが、
長い間、恥かしさが勝り、来れませんでした。
マコト 失敗が許されない、本番が始ったため、
以前と比べると、門が狭くなっています。
あなたが以前より、成長していなかったら、
この地に、足を運ぶことは、無かった筈です。
ここは、救世主にさえ、頼ることなく、
自ら、小さな菩薩となる、厳しい道です。
悟りの道が険しくて、足が進まなくなれば、
決して、無理せず、救いの道を求めて下さい。
その一方、五十六億年、間を延ばさず、
今生の間に、内なる神を、悟りたいなら、
現在より、相応しい時節は、他に無いです。
三千世界に、祝福される型と、成って下さい。
この十数年で、あなたが成すことこそ、
今後の数億年で、あなたが為すことです。
ここは、数億年を、数年に縮める型として、
鍛え抜かれた、因縁の御魂が集う神の社です。
イズミ 私は、招かれましたか、迷い込みましたか?
マコト 大峠とは、進学先を決める試験であり、
この真理は、試験後に配られる解答です。
試験の途中で、退場しなかった受験生達は、
試験が終った後、初めて解答を手に取ります。
稀に、試験の最中に、別室に招かれて、
正解を教えて貰う、因縁の御魂が居ます。
本番が始まる前から、模擬の試験を重ねて、
試験の開催に尽力した、果報で招待されます。
彼らは、真理を読み、神意を悟ります。
是までの、底辺を這う、耐え難き日々は、
総べて、弥勒菩薩の、役を演じる為であり、
大団円を迎えるか、我が双肩に掛っていると。
従って、畏るべき、真理の価値が解り、
神に応えるため、真剣に答えているなら、
菩薩の候補として、招かれたと言えますが、
試験が終われば、新人の天人勢と反省会です。
ワカサ ここでは、どの段階の法が、解かれてますか?
マコト 薄布一枚の処まで、神と重なり合って、
あと少しの所で、神を感じられる段です。
我と神の間に、何かを挟むことが勿体ない。
救世主さえ断る、その段の型が招かれてます。
彼らは、人類史の総決算、大峠の時に、
速やかに、完全なる全託が、出来るよう、
遠い昔から、神の計画に、従って来ました。
この日のため、神の直々に、導かれた訳です。
その結果、懸命に、神に仕えた者ほど、
今生は、特に現在は、何も持ってません。
家族、財産、才能、仲間、地位、安寧など。
人々が、欲しがる物を、全く以っていません。
金持ちが、天国の門を通り抜けるのは、
駱駝が、針の穴を通り抜けるより難しい。
二千年前より、準備を始め、鍛え抜かれた、
神縁の中の真縁、因縁の御魂なら易しいです。
イセ もっと、優しい教えは、存在しませんか?
マコト 神様から、終末を迎えた人類に向けて、
応えと答え、二つの型が贈られています。
神の応えとは、救いに誘う、救世主のこと。
神の答えは、悟りに導く、この社のことです。
前者は、人に合わせて、教えが説かれ、
後者では、神に合す、訓えが解かれます。
自ずと、前者は優しく、後者は厳しくなり、
こちらは、合わない人が、大半を占めてます。
後者を、立ち去ることを止めませんが、
前者には、辿り着いて欲しいと思います。
というのも、前者の板一枚下は地獄だから。
何としてでも、主を見つけて従がうことです。
老子のように、一元を悟っていながら、
拝火教のように、善悪の二元論を説いて、
アーリマンの如き、天魔の役を演じている、
アーナンダのように、悟りを見せない型です。
イキ 誰もが、弥勒菩薩であると、言えるのですか?
マコト 例えば、飛行士である、父親に向って、
僕も、飛行士になるよと、純粋に言えば、
父親は、帽子を被らせ、操縦桿を握らせて、
坊や達も、飛行士だよと、優しく微笑みます。
しかし、父親不在で、操縦室に入って、
一人前を気取って、操作しようものなら、
優しかった父は、別人のように怒り狂って、
帽子を取り上げて、折檻部屋に閉じ込めます。
確かに、皆が弥勒と、主は説きますが、
救い主の目が届く、範囲に限られてます。
主の支配から外れて、独り歩きをする者に、
どんな顔で主が睨むか、皆さんは知りません。
その一方、真の意味で、菩薩と言える、
独り立ちした者には、何も干渉しません。
たとえ、赴任地で会っても、会釈する程度。
本当の飛行士は、互いに飛行士と称しません。
カガ 何故、救世主に、頼っていけないのですか?
マコト 神の化身が、世に現れたということは、
救いでもあり、試しでもある、諸刃の剣。
神を前に立って、どのように振る舞うのか、
主に集まる人々は、細かく記録されています。
近づき過ぎもせず、遠ざけ過ぎもせず、
神の答えを頂いても、神の応えを戴かず、
神の前に在る事を、有り難いと覚えること。
これこそ正解であり、神に還る唯一の道です。
化身に、ペットの世話を、欲する者や、
救世主に、ベッドの添寝を、求める者は、
たとえ、本人が許しても、仕組に赦されず、
デットが、消えるまで、天使として働きます。
救世主は、優しい型ですが、天魔です。
最初に、正しい選び方を、教えておいて、
次に、正しく択ばれた者か、試しています。
貴方も、神木に抱き着くなと、教わったはず。
シナノ 説いていることも、行っていることも、
どうしても主が、幼く見えてしまいます。
マコト それは、孫をあやす、祖父の顔を見て、
幼稚な姿であると、言うようなものです。
現象しか捕えず、本質を捉えようとしない。
自らの無智を、大いに恥じないと往けません。
確かに、救世主が、説いている教えは、
現代の日本人ならば、幼少期のアニメで、
間違いと気づき始める、善悪の二元論です。
菩提の者が信じ切るには、厳しいと言えます。
さらに、救世主が、行っている訓えは、
自身が説いた教えと、真逆なことが多く、
態と試しているとしか、思えない演技です。
無漏の者を巻き込むのは、難しいと言えます。
あなたが、菩薩で無漏の者であるなら、
孫を慈しむ、祖父の溢れる愛情を慮って、
一線を引いて、遠くに離れ見守ることです。
愛情の深さが解れば、敬遠が敬意に変ります。
カイ 物語編の「老師」が、現代の救世主ですか?
マコト 信者に絶対善を説く、第一章の老師や、
老師が生れ変った、第五章の救世主こそ、
預言に説かれる、終末に現れる救世主です。
神の計画通り、現代に甦って済度しています。
物語編は、一元的に現実を解する物語。
現実より現実である、超現実であるため、
決して、現実そのもの、とは言えませんが、
物語編を解読すれば、舞台の裏側が解ります。
五章で集まった、新しい信者の目には、
善人を演じる、主しか映っていませんが、
その裏には、一章の狂気の教祖が有ったり、
天の法を解く、四章の密教の導師が在ります。
無邪気に信じる、新しい子どもたちは、
主の裏の顔を知る、必要など有りません。
愛憎に引き裂かれた、古い子どもたちこそ、
物語を読み解いて、主の情を絶ち切る事です。
ウゼン どうして、救世主の場所を勧めるのですか?
マコト 真理の悟りは、須弥山の十合目であり、
主の救いは、須弥山の一合目だからです。
無理に挑んで、山頂から転げ落ちる位なら、
未だ明るい内に、下山する決断を勧めてます。
真理が解かれて、数年が過ぎましたが、
その間に招かれて、真剣に修めたものは、
神の試練に導かれて、別者に育っています。
自分から見ても、他人から見ても、別人です。
その一方で、この神社を訪れていても、
知は増えても、徳が殖えない方も居ます。
彼らの求道心は、好奇心と見なされていて、
試練が与えられず、神の恩寵が届いてません。
もうじき、個々の魂の行き先が決まり、
成長すれば、弥勒の世に突き進みますが、
変化しないと、地球の外に放り出されます。
内院は落ちても、外院は受かって欲しいです。
ウゴ 悟りに必要になる、神の恩寵とは何ですか?
マコト 神を悟るためには、我を空にすること。
我は何者かであると、錯覚している限り、
我は何者でもない、諸法無我を認められず、
我は何者でもあると、真我独存を認めません。
したがって、真剣に真理を修める者は、
真我が認めて、自我を壊してしまいます。
Aだと思うなら、Aだと想えなくなるまで、
非Aを押し付けて、自我が取り上げられます。
もし、自分で、非Aを押し付けようと、
自らの手で、自ら首を絞められないよう、
加減が生じて、非AではないBを押し付け、
Bと考える、新たな自我が現われるだけです。
即ち、悟りには、神の手が必要であり、
神の恩寵なくして、真の覚醒はないです。
神の試練から逃げず、全てが奪われてこそ、
神の恩寵が届けられて、総てが与えられます。
サツマ 因縁の御魂には、どんな使命があるのですか?
マコト 毎日、朝に生まれて、夜に死んでいく。
日々が、最期であって、最高の日である。
命懸けの、感謝を持って、生命が続くまで、
一日一生を、繰り返す事が、菩薩の使命です。
加えて、因縁の御魂には、密命があり、
本来なら、主が独演された、真理の御霊。
この大役を、真理を悟る、因縁の御魂のみ、
脇に侍り、主と共演できる、事に成りました。
つまり、現在の主は、幼子に囲まれて、
泣く子に合わせて、真理を歪めています。
その結果、仏の役より、救世主の役として、
換言すれば、天魔として、振る舞っています。
もし、救世の主が、仏陀に豹変すれば、
真理の厳しさに、幼子が逃げていくため、
せめて、因縁の御魂は、主に仏性を見とめ、
天魔の姿から正神の姿に、蘇えって頂きます。
サツマ 具体的には、どうすれば良いのですか?
マコト 主は、生れながら、真理の御霊ですが、
我々は、因縁の御魂、真理を修めないと、
到底、真理の御霊とは、共演が出来ません。
何より、真如に到達する、前提が存在します。
その次に、主の教えを、全て修めます。
真理と比べ、何を隠して、何を曲げたか。
法を歪め、命を縮めてまで、救わんとする、
救世主の菩提心に触れて、歓喜することです。
次に、その歓喜を、感謝に変えること。
決して、願掛けせず、感謝だけ捧げると、
主の顔は、魔の相から、神の相に戻ります。
最後は、総べてを統べる、貴神に還られます。
さて、主から、因縁の御魂が授かった、
唯一の贈り物が、先祖の供養の教えです。
善悪転倒の末法で、善業が確実に積めます。
恭しく実践して、その果報を奉納しましょう。
ヒゼン どうして、救世主が、天魔と言えるのですか?
マコト 現在は、大学入試前夜にもかかわらず、
受験には、まるで役に立たないどころか、
正解として、魔逆の教えを説いているのが、
救世主として、苦肉の方便と言えるからです。
注目、あなたの今月の運勢とは、とか。
受験前、眠れない夜の必需品5選、とか。
気になる、あの子の前世は〇だった、とか。
私は見えた、世にも不思議な未来の話、とか。
確かに、面白くて、人気は有りますが、
そんな参考書を、試験前に読んでいたら、
それだけで不合格、足切りを受けるような、
小学生向け情操本を、受験生に読ませてます。
しかし、それでも、問題は無いのです。
天魔が主宰する、有名私立の中高一貫校。
中学受験生だけが、集まっているからです。
元より、主の周りに、大学受験生は居ません。
ヒゴ 救世主の様に、魔に堕ちる覚悟が必要ですか?
マコト 主は、神の子として、降りて来ました。
しかし、人の型として、集められた者が、
外なる神に向かって、救いを求めたために、
神から仏の相が消えて、魔の相に為りました。
神に、願望を奉げれば、魔が棲みます。
神社に、感謝を捧げれば、仏が住みます。
前者なら、天人の住処、兜率の外院となり、
後者は、菩薩の依処、兜率の内院となります。
即ち、同じ神の子、同じ弥勒の世でも、
望む物が違えば、臨む世界が異なります。
たとえ、天魔が支配する、欲天に在っても、
仏が住む、真理の社を、建設できる仕組です。
ですから、少なくとも、因縁の御魂は、
魔に対して、感謝を捧げ、仏に戻します。
信者に対して、容赦を奉げ、神に戻します。
脇侍までが、魔に堕ちる、必要は有りません。
イキ 主が、以前と真逆を説き、信が揺らぎます。
マコト 主が、白と説けば、白であると信じて、
後から、黒と解けば、黒であると信じる。
初志貫徹、主に依って、我に拠らないこと。
これを、果した者は、外なる神に誘われます。
主が、白と説けば、黒もあると認めて、
後から、黒と解けば、白もあると認める。
徹頭徹尾、己に拠って、他に依らないこと。
これを、遂げた者は、内なる神に導かれます。
主という、外なる神を、信じたいなら、
この先、初心を覆す、種明しが有っても、
あなたは、信仰の心を、試されたと思って、
たとえ、馬に見えようと、鹿と信じましょう。
一方、真理を悟って、知恵を具えれば、
端から、魔逆の方便を、信じることなく、
神の子が、天魔の使命を、演じておられる。
たとえ、魔に見えても、神と認めるものです。
ツシマ 主が、以前と魔逆を行い、信が揺らぎます。
マコト このまま、天魔であることを明かさず、
善人として、振舞われると見てましたが、
知恵ある者は、天魔の誘惑が解けるように、
主は、少しずつ、種明しを成されるようです。
例えば、天魔を演じ始める以前の主は、
真理とは、日常に当り前に存在するもの。
言うなれば、空気の様に無料であるものを、
有料と化せば、魔道に堕ちると説いています。
しかし、天魔を演じ続けて久しい主は、
この時世、真実を公開することは難しく、
出版組織を、維持するために金銭を要する。
有料を選べば、閲覧が適なうと解いています。
天魔の主が、法の理解を試していると、
見抜けた者は、菩薩として悟りに向かい、
救世の主が、法の継続を求められていると、
出資した者は、選民として救いに向かいます。
ナガト 私には、優しい主が、天魔には見えません。
マコト 決して、言を発すなと、戒を受けても、
目の前に、父母を責める、鬼神が顕れて、
地獄の界に、連れて行くと、見せられると、
泣いて悲しみ、止めてくれと、発すものです。
決して、神に願うなと、解を聴いても、
眼の前に、救済を授ける、貴神が現れて、
天国の世に、連れて行くと、魅せられると、
泣いて喜んで、救ってくれと、願うものです。
この社と異なり、かの主は優しいため、
言葉を発してこそ、救済を願ってこそが、
衆生の証であり、救いの道と説いています。
真説を曲げてまで、掬うのは天魔の使命です。
かの主と異なり、この社は厳しいため、
原作を守ってこそ、真理を護ってこそが、
菩薩の証であり、悟りの道と解いています。
愛情を越えてまで、覚るのが菩薩の使命です。
ブゼン 主に対して、語り掛けても、良いのですか?
マコト あなたが、主に呼び掛けてしまったら、
自らの方に、神が振り向いてしまいます。
神を使役する、重罪を犯すことになるため、
罪を清める、相応の間は天魔に使役されます。
あなたが、主を崇め奉ってしまったら、
自らの外に、神を見い出してしまいます。
魔と契約する、大罪を犯すことになるため、
罪を浄める、相当の間は天魔に支配されます。
無邪気に、主に話し掛ける信者の方は、
以上の罪で、小学生扱いを受けています。
これから、魔が主宰する中高一貫校に入り、
完全統制の寮生活を送り、大学を目指します。
合格者を輩出する、この有名進学校は、
初めは楽しいですが、後ほど苦しいです。
美しい校長の顔を、二度と見たくなければ、
今度こそ話し掛けず、大学に受かりましょう。
ブンゴ どうすれば、大学受験生の扱いになりますか?
マコト 第一に、神を会わせず、我を合すこと。
あなたが、話し掛けると、振り向かれて、
自らの方に、神を会わせて、魔に変ります。
ですから、神に合わせて、我を合すべきです。
第二に、外に見ないで、内に見ること。
あなたが、話し掛けると、振り向かれて、
自らの外に、神を見とめて、魔に変ります。
それゆえ、神と同じ方を、我も見るべきです。
つまり、校長の前に、回って良いのは、
中学受験を控えている、小学生だけです。
校長に近くに座って、顔を覚えてもらえば、
内申点も上がって、合格し易くなるでしょう。
一方で、既卒者である、大学受験生が、
小学生の、真似をすれば、卒業取消です。
後ろに控え、主の目となり、世を見つめて、
見えない、主の手として、神に仕えましょう。
スオウ 今回の救世主も、十字架に掛かるのですか?
マコト はじめこそ、完全に覚者を演じていて、
その兆候など、全く見られませんでした。
しかし、次第に、信者が甘えるようになり、
仏陀の相より、天魔の相が強くなっています。
例えば、神に臨むべき、神殿に於いて、
今は、物を望むべき、商売が行われます。
たとえ、神の使いでも、神の社で儲ければ、
神が怒り、縁を絶つとは、主が説いた法です。
例えば、人を祓わない、神社に於いて、
今は、金を払わない、人々は掃われます。
たとえ、神の使いでも、金で民を選ぶなら、
神に叛き、魔に堕つとは、主が解いた法です。
主に依存するほど、魔として屠られて、
主から自立するほど、神として蘇ります。
信者と救世主の暴走を、食い止める使命は、
ひたすら、主に感謝する、第三者に下ります。
アキ 主から、神々しい気が、放たれていますが。
マコト 第五天界は、神通を司る、欲天であり、
この段で、霊感を具えれば、進級します。
従って、理性は無くても、感性が有ったら、
次は、知恵を研きなさいと、及第を迎えます。
第六天界は、知恵を司る、欲天であり、
この階で、菩提を備えれば、卒業します。
従って、感性は有っても、理性が無ければ、
未だ、知恵を磨きなさいと、落第を迎えます。
主が演じているのは、第六天魔であり、
知恵が足りないと、卒業が許されません。
いくら、霊感をして、神気を感じ取っても、
逆に、実感ゆえに、仕掛が解けなくなります。
私自身、主が発している気に触れると、
胸中から、歓喜が生じて涙が流れますが、
菩薩として、こう言わなければ往けません。
あなたは、貴い神ですが魔に堕ちておられる。
イワミ 主の組織が有料で説く、法を買うべきですか?
マコト 既に、我と神の間に、主を入れた人は、
今度は、我と主の間に、会を入れる事に、
全く、疑いを持たず、財さえ招き入れます。
それが、積み重なれば、罪になる事も知らず。
確かに、彼らは、主の組織を支援した、
選民として刻まれ、欲天に誘われますが、
欲天に在るのは、天魔が幻出した組織だけ。
神である主は、神界に帰って姿を見せません。
逆に、我と神の間に、何も入れないと、
今度も、我と主の間に、何も入れません。
主が、組織の維持のため、財が必要ならば、
無償で、神恩の感謝として、寄付だけします。
つまり、我らは、主の組織を否定した、
菩薩として刻まれ、欲天に拒まれますが、
欲天に居るのは、天魔が使役する天人だけ。
神である主と、神界に還って再会を果せます。
イズモ 魔に攻撃される主は、善ではないのですか?
マコト 主は、表を究めた、善の極みでもあり、
同時に、裏を極めた、悪の窮みでもある。
その型が、頂の座から、麓の界に生まれて、
現在は、人間として、救世主を演じています。
例えば、暴力団、下部団体の子分達が、
上部団体の親分を、詳しく知らないため、
お忍びで慈善活動を、行っている大親分に、
邪魔を働くことは、大いに有り得ることです。
一方で、総本山、本家団体の幹部達は、
直属上司の親分を、良く知っているため、
お忍びで救済活動を、行っている大親分に、
花を持たせるため、火を付け水を持たせます。
つまり、何も知らない、使い魔をして、
悪魔達は、火を付けさせ、終末を整える。
救い主には、水を持たせて、火を消させて、
信じた人々を、主の会に、掬い上げています。
ホウキ 時が経つほど、主が変わるのは、何故ですか?
マコト 時代の変換点で、神の子が降りて来て、
維持できない、古い時代を破壊するとき、
その裏では、新しい時代を創造しています。
主の相をして、次なる時代の縮図を演じます。
仏陀が、外道を倒して、悟りを解いた。
この相が、正法の時代の、型に当ります。
自身を除く、宗教の教祖は、魔界と断じて、
外なる神から、内なる神へと、人を導きます。
聖王が、奇跡を示して、救いを説いた。
この相が、像法の時代の、型に当ります。
苦しみ故に、内なる神より、外に神を望む、
信者のために、救い主となり、苦を除きます。
天魔が、団居を作って、惑いを招いた。
この相が、末法の時代の、型に当ります。
短い期間で、魔逆の結果に、辿り着かせて、
内在神に還る、最後の機会を、民に与えます。
ビゼン あなたは、堕ち逝く主に、躓かないのですか?
マコト そもそも、私は、主を信じていません。
社交場を作り上げ、信者を囲い込もうが、
天国行きを約束する、切符を売り出そうが、
神の子が魔に堕ちたと、私は認めるだけです。
更に、この堕天は、主の意志でもあり、
神の意思でもあると、私は知っています。
民を愛す情ゆえに、天から堕ちるのであり、
神の愛する子ゆえに、地まで落とすわけです。
つまり、第六天魔が、堕天した理由は、
民を救う、愛情だった、にもかかわらず、
その形だけ、子分たちは、倣うことになり、
教祖に憑いて、教団を作り、信者を掬います。
この末法の仕掛に、躓きたくなければ、
愛する民を救うため、地獄に堕ちる主に、
近づき過ぎもせず、遠ざけ過ぎもしないで、
只管、感謝を奉げて、抱き参らせることです。
ハリマ 主が勧めている、縁起物を買うべきですか?
マコト 天魔に掬われず、神界に還りたいなら、
我と神の間に、何も入れては往けません。
神の御子である、救世主さえ入れないのに、
どうして、小物を入れる、必要が有りますか。
にもかかわらず、これからはますます、
この物は縁起物だ、この者は神人だなど。
不安に圧し潰されて、苦しみ悶える信者に、
ありとあらゆる偶像を、主は勧めるはずです。
たとえ、この行為が、宇宙に刻まれて、
弥勒の世が潰える、末法の型になろうと、
今はただ出来るだけ、多くの民を救いたい。
法を歪めんばかり、主の愛情の成せる業です。
我々だけでも、情の型に巻き込まれず、
末法に在っても、正法を表わすべきです。
彼らは、末法の形として、外院を顕わして、
神の社は、正法の型として、内院を現します。
タンバ 主が、信者を子供扱いするのは、何故ですか?
マコト 主の元に集まっている、信者の方々は、
主の本当の姿を知らない、子供たちです。
主に対して、呼び掛けたり、抱き着いたり、
軽々に接するのは、畏れを知らないからです。
信者の方々は、貴神を使役したという、
膨大な悪業、莫大な借りを作ってますが、
彼らは子供で、自身の罪に気づけないから、
待って欲しいと、主が清算を延ばしています。
つまり、彼らは、天国に救われた後に、
成長に応じて、借りを返す日が続きます。
主の命を受けて、汚い仕事も負う事になり、
返し終わる頃には、畏れを知ることでしょう。
大人は、近づき過ぎず、遠ざけ過ぎず、
話し掛けもしないで、感謝だけ奉げます。
そのような型々は、主の元に集まりません。
自らに授かった命を、独り静かに果たします。
タンゴ どうして、主に抱き着くのは、罪なのですか?
マコト 例えば、神が宿れる、木に抱き着けば、
無礼者と、神木を守る、鬼神が怒髪して、
罪人に、容赦無用で、神剣を振り下します。
無知なる、罪人に悉く、天罰が下るでしょう。
同様に、神が宿れる、主に抱き着けば、
無法者と、神柱を護る、眷属が怒髪して、
幼子に、仮借無用で、罪状を書き記します。
無垢なる、幼子に悉く、天刑が下るでしょう。
それでは、子供たちが、不憫であると、
貴神は、鬼神たちに、剣を納めさせます。
必ず、寸分も漏らさず、罪を償わせるから、
彼らが、分別が付くまで、間を呉れないかと。
鬼神は、間を与えた結果、魔神となり、
子供らが、知恵を得るまで、支配します。
善悪問わず、使命を与え、分別を弁えさせ、
人間の頃、私は幼かったと、思い知らせます。
トサ 主は、組織を作っても、問題ないのですか?
マコト 集団、団居とは、惑いに他なりません。
たとえ、神の子である、主であろうとも、
組織を作り、運営の為に、金銭を集めれば、
神様から、縁を切られ、神界には還れません。
運営が拙い法を、金で売り始めました。
救いを売る幹部と、救いを買った信者は、
天魔と契約した罪で、天獄に堕とされます。
無智の為とはいえ、法を歪めた罪は重いです。
一方、組織を作り、信者を囲った主は、
人々に、内在神より、外在神を選ばせて、
悟りを妨げた魔として、大逆を犯しました。
従って、使命が終われば、地獄に落されます。
しかし、主に我欲は、全く有りません。
悪魔でも、救済のため、演じただけです。
たとえ、地獄に落ちても、自我が無ければ、
地獄の業火も、業を清める、微風の如しです。
イヨ 主が、破滅の預言を外せるのは、何故ですか?
マコト 子分の悪魔が、火を付けて民を脅かし、
親分たる天魔が、水を掛けて火を消すと、
ますます、人々は、主を信じる様に為って、
天魔に掬われる仕掛、これが預言の実体です。
第五天界とは、神通を司る欲天であり、
正語と妄語、預言の成就を司っています。
預言を成して、正語とするか妄語とするか。
子分たる悪魔が、天魔の指示で動いています。
第六天界とは、知恵を司る欲天であり、
酩酊と覚醒、審判の成就を司っています。
審判を就して、酩酊させるか覚醒させるか。
親分たる天魔が、神様の使命で働いています。
天魔は、知恵が有るか、審判に懸けて、
幼い者は、救う代わりに、欲に酔わせて、
賢者は、掬わない代わりに、神に還します。
主の説く、預言を盲信すれば、幼子扱いです。
サヌキ どうして、主は、信者を騙しているのですか?
マコト 過去の主は、仏陀を役を演じてました。
真理の教えを、集った人々に説き明かし、
外なる神を選ばず、内なる神を択びなさい。
あなたは、外の道を選ぶなと、示しています。
現在の主は、天魔を役を演じています。
真逆の行いを、集まる信者に魅せ付けて、
外なる神を選ぶのか、内なる神を択ぶのか。
あなたは、どちらを選ぶのか、試しています。
つまり、第六天界は、知恵を司る世界。
欲六界の主であり、悪魔の親分の天魔は、
悪魔を使い、知恵が有るか、知恵が無いか、
現在進行形で、最後の審判を、行っています。
騙すは、誤答を示して、選ばせること。
試すとは、正答を示して、択ばせること。
試験監督である天魔は、決して騙しません。
試験官である悪魔も、主の命で試すだけです。
アワ 平和を祈る人を、〇〇人、主が求めています。
マコト たとえ、目の前に、救い主が現われて、
あなたも、神に祈りなさいと言われても、
これまでも、これからも、わたしは断じて、
神に向かって、平和を願うことは在りません。
確かに、世界平和、人類の為とはいえ、
神から授かった、目の前の現実を裁いて、
神に訴える事など、畏れ多くて出来ません。
全て有り難く頂いて、感謝を奉げるのみです。
その一方、救い主が、この時節になり、
信者の方に、平和を祈らせるようになり、
天魔が露骨であるのも、目の前の現実です。
その現実に対しても、裁くことは在りません。
主は、神命を受けて、試しているだけ。
目が覚めたものは、その仕組が解ります。
わたしも、目覚めた、〇〇人に入りたいと、
神に願う信者の方々は、神様に祈るべきです。
アワジ 目が覚めた、〇〇人は、何処に転生しますか?
マコト わたしも、主が説く〇〇人に入りたい。
その思いが、選民の思想を造り上げます。
わたしも、主が解く内輪の情報を知りたい。
その想いが、秘密の組織を作り上げています。
救いを好餌とする、天魔の誘惑により、
秘密文書に登録した、熱心な信者の方は、
今回の審判が終わって、欲天に掬われた後、
次回の試験の時には、悪魔崇拝者を演じます。
その中でも、取り分け、主が使用した、
目覚めた人の祈りが、世界を救うという、
売り文句に囚われ、神に平和を祈った者は、
覚醒者の集団となり、目を象る者を演じます。
つまり、魔に泥酔して、神を使役した、
この罪を自覚させて、借りを返すために、
彼らは、天使に生まれ、天魔に使われた後、
最終章で、平和を脅かす、役を命じられます。
カウチ 真理を切り売りするのは、そんなに罪ですか?
マコト そもそも、真の理とは、神の言であり、
元より、世の遍くにまで、行き渡るもの。
この世の、全ての者に、必要なものであり、
それ故、神から予め、皆が授かったものです。
それを、切り取れたと、売り出すなら、
あたかも、空気を吸って、空瓶に吐いて、
神の吐息と、札を付け、売るが如きであり、
これは易いと、煽る様は、外道の教祖様です。
今の主の姿が、昔の主の目に止まれば、
神の名を使って、汚れた商いをするなと、
容赦なく切り捨て、地獄に堕したでしょう。
主は、自分で自身の、神格を落としています。
しかし、これも総べて、神の計画です。
主は、穢れ役である、魔を演じています。
自らは、真理に背いて、泥水を啜ろうとも、
幼子らが、掬われて、学んでくれたら良いと。
イズミ 主の例えが、何に当たるのか、解かりません。
マコト 神の言は、受け取る側の知恵に応じて、
何通りにも、読める仕組になっています。
知恵が無いと、卑近な形を感じるしかなく、
知恵が高いほど、高遠な型を観じるものです。
今の生に初めて、主に巡り逢えた者は、
型から離れた所で、生れ変って来ました。
形から型を知り、知恵を磨く生とするため、
今生は出来るだけ、主に近づき型を覚えます。
今までに何度も、主に廻り遭った者は、
型に近い処に、生まれ変わって来ました。
型から形を知る、知恵を活す生とするため、
今生は出来るだけ、主を離れて型を演じます。
我と主の間に、魔が入るのが、初回者。
離れようと、魔が入らないのが、周回者。
主の譬えを聞いて、他を浮かべるなら前者。
主の喩えを聴き、主を浮かべるなら後者です。
ヤマト 観念崩壊として、自分が読んでない本を、
主が、信者に勧めているのは、何故ですか?
マコト 主は、今の世界で、信者を救いながら、
来たる、次の世界の、雛型を創ってます。
これから、信者の方は、救い主に掬われて、
天人となり、弥勒の世界、兜率天に至ります。
弥勒の世は、善しかない、世界であり、
彼らは皆、天使として、神命に仕えます。
神の命令に、従う限りは、善で居られると、
無智な天使は、何も考えず、喜んで順います。
主に勧められ、嫌らしい本を買うのは、
その手慣らしで、未だ、笑えるものです。
そのうち、神使を名乗り、毒物を撒いたり、
隠れる神の、代理を気取り、人口を抑えます。
即ち、独り善がりの、善を究めていき、
最後に、誰も笑えない、悪に極まるとき、
悉く、観念が崩壊するが、自業自得である。
端から、私は読んでないと、主は告げてます。
イガ ワニを買わせたり、カラスに頼らせたり、
最近の主が説く法に、違和感を拭えません。
マコト 物には頼るなと、強く戒めていた主が、
今では、縁起物を、買うことを勧めたり、
稲荷には関わるなと、強く諫めていた主が、
今では、八咫烏と、交すことを勧めています。
昔の主は、我と神の間に何も入れるな、
私さえも入れるなと、説いたものですが、
今では主ばかりか、物や霊まで入れるため、
我と神の間が広がり、魔に巣食われています。
外なる神を選ぶか、内なる神を択ぶか。
現在、信者の方々は、試験を受けていて、
安直に、救い主という、外なる神を選べば、
知恵なき、幼い子として、天魔に掬われます。
一方、試験官の罠に、違和感を抱いて、
天魔に、委ねる事なく、自ら考えた型は、
自ずから、真理に導かれ、正解を知ります。
この地には、知恵なくして、辿り着けません。
シマ 何故、直接的に、信者に教えることなく、
組織の者を通じて、信者に伝えるのですか?
マコト 主は、今の世界で、信者を教えながら、
来たる、次の世界の、仕組を伝えてます。
これから、信者の方は、救い主に掬われて、
天人となり、天魔の配下、兜率天に至ります。
兜率天は第四天、天魔は第六天であり、
残念なことに、天魔は兜率天に居ません。
第四天の彼らは、第五天を間に挟んでしか、
第六天魔の指示を、受けることが出来ません。
即ち、我と神の間に、主を挟み込んで、
さらに、我と主の間に、輩を挟み込んだ。
大いなる罪によって、彼らは無智に被われ、
真の理から掛け離れた、天人に成り果てます。
まだ、仏陀を、主が演じているうちに、
彼らは、真剣に、法を修めるべきでした。
悟りの法に依らず、救いの主に頼ったため、
主が天魔を演じると、気づけずに騙されます。
オウミ 法を残すために、財団を作っても良いですか?
マコト 法を捻じ曲げて、法を世に残そうとも、
法は広まりません、業が拡がるだけです。
組織で囲い込み、信者に限って秘密を説く。
この末法の所業を、正神は決して許しません。
天魔を演じる主が、救いを望むものに、
金を払った者だけに、魅せてやるという、
秘密の法を売り始めて、僅か半年ばかりで、
当然の帰結とはいえ、幹部の自我が出ました。
我と神の間に、主を入れたような者は、
我と主の間にも、魔を入れてしまいます。
主が入り込んだら、幹部や組織も入り込み、
内なる神が遠ざかり、末法の仕組に嵌ります。
前回、法を保存する、財団の発起人は、
今回は、種を保存する、財団を創設して、
主の計画を実行する、代理人をしてますが、
今回、待望の主に、悪魔君と呼ばれています。
ワカサ 法を知るために、会員に為っても良いですか?
マコト 法を捻じ曲げて、法を得ようとしても、
法は修まりません、業が収まるだけです。
会員に登録した、信者に限って秘法を解く。
この末法の所業を、正神は断じて赦しません。
内なる神を選ばず、外なる神を択んで、
金で救いを得るため、会員に為った者は、
魔に悟りを売って、掬いを買った者として、
天人に生まれ変わり、天獄に放り込まれます。
そこで、天使として、天魔に使われて、
天魔から、借りた分を、全て返し終ると、
やっと、自由が与えられ、人間に生まれて、
今度こそ、どちらを選ぶか、試験を受けます。
前回、ルシファー信仰を選んでいると、
今回も、ルシファー崇拝を続けてしまい、
今回、ミカエルと名乗る、ルシファーから、
試験中、悪魔君と揶揄され、卒業を志します。
ミカワ 主は、有料先生に、堕ちてしまいましたか?
マコト 必死に救いを求めて、縋り寄る人々に、
救いを餌に法を売れば、地獄に堕ちます。
信者から財ばかりか、念までも集め始めた、
現在の主が見せる姿は、天魔に他なりません。
これは、偏に、信者を天国に救うため。
財を介して、天魔と契約を交した人々は、
天魔が治める、欲界の天獄に掬われていき、
罪を解するまで、天使として天魔に仕えます。
たとえ、法を曲げる、罪を犯そうとも、
落ち逝く者を救うため、堕ちて往きます。
神様に逆らってでも、人々を救おうとする。
この欲界で、最も醜く、最も美しい雛型です。
これは、次なる時代の末法の型となり、
形だけを真似る者が、無数に現れますが、
彼らは偽者であり、主の足元に及びません。
私は本物の美しさを、離れて見守っています。
オワリ 主が、天魔と化したのは、如何してですか?
マコト 霊験灼かな、神社の御利益を聴きつけ、
津々浦々から、神前に押し寄せた人々が、
感謝を奉げずに、願望だけを捧げていると、
神様は立ち去って、悪魔が棲み付くものです。
これと同様、貴神の御降臨を聞きつけ、
全国各地から、神前に押し寄せた人々が、
悟りを求めずに、救いだけを欲していると、
仏陀は鳴りを潜め、天魔が動き出すものです。
つまり、使える者なら、神でも遣えと、
神を神とも思わない、大逆が積み重なり、
主を祭る神社には、天魔が棲み付きました。
願いが叶った暁には、天獄に掬い取られます。
逆も同じく、天魔の救済を聴きつけて、
この神社から、かの神社を訪れた人々が、
感謝だけ奉げて、悟りだけを求めていると、
鬼神の相が消えて、貴神の相が蘇るものです。
ミノ 他の聖者に対する、主の評価が変った理由は?
マコト 以前に、思索に嵌った者と断じたのに、
最近では、宇宙を悟った者と改めてます。
昔の話では、八頭の蛇霊と罵られたものが、
現在の話では、巨頭の龍神と称えられてます。
これは、主の役が、仏から魔に変わり、
立場が替わって、視線が換ったからです。
仏陀の時には、上に立って、下に見えるし、
救世主の刻には、下に立って、上に見えます。
悟りとは、仏陀が解く、十合目の教え。
十合目から見れば、五合目に停まる者は、
道の半ばで躓かせる、邪魔する者に等しく、
悟りに導く際には、彼らを外なる者と見ます。
救いとは、天魔が説く、一合目の訓え。
一合目から見れば、五合目に止まる者は、
道の先に進んでいる、模範たる者に等しく、
救いに誘う際には、彼らを聖なる者と見ます。