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物語編

第六章 第六十話 問答編

マサシ キリストとは、どういうものですか?

 

アキラ キリストは、世を救う、救世主であり、
    ヘブライ語で、メシアと、呼ばれるもの。
    人々が作り出す、応報を朗報に移して行き、
    神の御心のままに、地上に天国を映して行く。

 

マサシ 人法(ジンポウ)は、どういうものですか?

 

アキラ 人法は、応報に基づく、人の法であり、
    梵語では、カルマと、呼ばれているもの。
    応報は、人から人に返る、欲の報いであり、
    最終的に、あらゆる思いが、我が元へと返る。

 

マサシ 神法(シンポウ)は、どういうものですか?

 

アキラ 神法は、朗報に基づく、神の法であり、
    梵語では、ダルマと、呼ばれているもの。
    朗報は、人から神に還る、良き報せであり、
    最終的に、あらゆる想いが、神の元へと還る。

 


 

ズシ  課されるものが、畏れ多過ぎませんか?
    救世主レベルのものが、問われています。

 

マコト 贖罪の山羊によって、二千年の猶予が、
    人類に与えられましたが、時は来ました。
    二千年前に、世の人が、彼に歩かせた道を、
    これから、同じ様に、人類は辿って行きます。

 

    二千年、遊び惚けた人が、大半ですが、
    悔い改め、学び続けた者が、多少います。
    彼らは、真我に導かれて、真理を修めると、
    この道を、見事に渡り、良き手本と成ります。

 

    後世に、彼らは、真理の御霊と呼ばれ、
    まさしく、それは、水瓶座の救世主です。
    今回、救世主は、待っていても現れません。
    自らが、覚悟して、世を救うしか在りません。

 

ズシ  ここは、誰かに援けてもらおうとせず、
    他を助けようとする、人の集まりですか?

 

マコト ここは、菩薩を育てる、真理の社です。
    他に依れば、魔に憑かれる、末法の世で、
    真理に拠って、魔に疲れない、智慧ゆえに、
    魔を抱き参らす、慈愛の菩薩が、集まります。

 

    後世に、彼らは、弥勒の菩薩と呼ばれ、
    まさしく、彼らが、弥勒の世を創ります。
    今回に、魔を憎めば、次回の魔に為ります。
    全て、神であると、自ら悟るしか在りません。

 


 

ウスキ 最近、目立たないのに、初対面の人から、
    異常に、好かれたり、嫌われたりしますが、
    自分には、その理由が、全く見当たりません。

 

マコト いつも、感謝を抱き、真理を修めると、
    少しずつ、浄化が進み、魂が磨かれます。
    そして、透明な鏡になり、光を放ち出すと、
    あなたの、周りの人を、照らす様に為ります。

 

    つまり、善い業の者が、光に触れると、
    鏡である、あなたの中に、善を認めます。
    隠れていた、善い業が、速やかに返るため、
    自ずから、あなたの側に、近づこうとします。

 

    反対に、悪い業の者が、光を浴びると、
    鏡である、あなたの中に、悪を認めます。
    隠していた、悪い業が、速やかに還るため、
    自ずから、あなたの傍を、離れようとします。

 

ウスキ これは、私自身の問題ではないのですか?

 

マコト 誰からも、同じことを、言われるなら、
    それは、あなたに隠れる、業の証ですが、
    この件は、あなたが積んだ、徳の明しです。
    菩薩の道を、進んでいる徴に、喜んで下さい。

 

    そして、この道を、更に進んで行くと、
    更に、多くの人から、憎まれるでしょう。
    そこで、彼らを許して、受け容れる使命が、
    誰も負おうとしない、キリストの十字架です。

 


 

オワリ この地に依るべきか、救世主に拠るべきか。
    わたしは、どちらの教えに、寄るべきですか?

 

マコト この地は、悟りに誘う、外宮を演じて、
    救世の主は、救いに導く、内宮を演じる。
    どちらも、元を辿れば、同じ根源神ですが、
    両者が、違って見えれば、主に寄るべきです。

 

オワリ 逆に、この地に依るべきは、どんな人ですか?

 

マコト ミカエルが、天国に救う姿を見つめて、
    ルシファーが、天獄に掬う姿を見とめる。
    ミカエルに、天国に誘われ、借りを作れば、
    その見返りに、使役されると、見抜く者です。

 

    逆に言えば、この仕掛を見抜ける者は、
    救世主に、既に飽くまで掬われています。
    神の化身は、居て下さるだけで、有り難い。
    そう思う型は、天使を卒業し、神上りします。

 


 

フクイ 今生、救世主に近づき、縁を持つべきですか?

 

マコト 今生の舞台で、救世主の形を演じると、
    生きている間は、主の側に近づけますが、
    死んでからは、主の傍を離れてしまいます。
    舞台の上で、救う側に回らなかったからです。

 

    今生の舞台で、救世主の型を演じると、
    生きている間は、主の側を離れてますが、
    死んでからは、主の傍に近づいていきます。
    舞台の上で、救う側に回ってこれたからです。

 

    本当の意味で、救世主に会いたいなら、
    偶像を追わずに、使命を果たすべきです。
    救世主と同じ、神の界に生まれ変われれば、
    恐ろしく美しい、真の姿に会える事でしょう。

 

    一方、主に近づき、救いを求めた方は、
    絶対に、主の傍には、生まれ変りません。
    真の姿を、認めるには、未だ早いからです。
    天人として、仕えながら、裏の顔を学びます。

 


 

ナルト もう、時間の猶予は、存在しないのですか?

 

マコト 彼方の、最愛のものを、捧げなさいと、
    神様から、無言で問われ、奉げられるか。
    これを、試されるのが、目下の大峠であり、
    真っ先に、越えるものが、菩薩と呼ばれます。

 

    菩薩は、如何なる者も、如何なる時も、
    我と神の間に挟まず、猶予を求めません。
    正神の厳しい道ですが、喜んで進めるなら、
    神上がりを果たして、色天に還って行きます。

 

    一方、沈黙の問いに、気づけないため、
    人々は、雄弁の救いを、求めるものです。
    神が贈る、救い主こそが、統べる王であり、
    主を通して、神の優しさが、伝えられてます。

 

    衆生は、我と神の間に、魔を挟むため、
    神と向き合うまでの、猶予を授かります。
    つまり、主に導かれて、欲天に生れ変わり、
    凡そ、五十六億七千万の、寿命を預かります。

 


 

カワチ わたしに、授けられている、使命は何ですか?

 

マコト 彼方の、最愛のものを、捧げなさいと、
    神様から、無言で問われ、奉げていくと、
    最後に、捧げるものが、我が命だけになり、
    それさえ、奉げるときに、神に止められます。

 

    それは、授けた命だ、果し切りなさい。
    これこそ、神に与かる、神の指名であり、
    この過程を経て、自らの使命を悟った者は、
    生きているだけで、有り難い心境に成ります。

 

    この菩薩の境地に、辿り着いたものは、
    その心境で為すこと、全て型となります。
    即ち、弥勒の世を築く、礎となる役を演じ、
    世にも、在り難い使命を、成し遂げられます。

 

    一方で、過程を経ずに、使命を抱くと、
    その物は、神名を騙って、自我を訴えて、
    周りの者を、地獄の世界に、巻き込みます。
    漏れなく、神や顔を出す者は、魔が憑きます。

 


 

オワリ どうして、救世主を、薦めているのですか?

 

マコト 中学に進級を志す、小学生にとっても、
    大学生に飛級を志す、小学生にとっても、
    魂を魅了して止まない、救世主の存在こそ、
    避けては受からない、試験の審判だからです。

 

    中学には、救世主こそが、最善であり、
    他の存在は、最悪であると、観照すれば、
    我と神の間に、主が緩衝して、進級します。
    欲天に至り、天魔に仕えて、借りを返します。

 

    大学には、救世主こそが、最善であり、
    救世主こそ、最悪であると、観照すれば、
    神と我の間に、主が干渉せず、飛級します。
    色天に到り、天魔を越えて、悟りを深めます。

 

    ここに、迷い込んだ人は、前者として、
    この地で、鍛え込んだ人は、後者として、
    須らく、救世主の存在を、明かしています。
    主は、決して避けられない、最後の仕組です。

 


 

オワリ あなたを、以前から、知っていた気がします。

 

マコト 現在、この神社には、真理と縁が深い、
    弥勒菩薩の候補が、集められていますが、
    外なる神を選ぶのか、内なる神を択ぶのか、
    最後の仕掛である、尾張の仕組を試されます。

 

    真理を修めるだけで、終わりとしたり、
    救世主を信じるだけで、了わりとすれば、
    外なる神を選ぶため、魔に支えて逝きます。
    外に顕われる法や主は、魔が応えるものです。

 

    真理を学ぶばかりか、行おうとしたり、
    救世主に習うばかりか、倣おうとすれば、
    内なる神を択ぶため、魔を越えて往きます。
    内に現われる法や主は、神が答えるものです。

 

    もうすでに、本番が始まっていますし、
    必要な教えは、総てが揃えられています。
    私の事を含めて、外に応えを求めなければ、
    全てが終った後に、統べて明らかになります。

 


 

シマ  〇〇は、大事なもの、ではないのですか?

 

マコト 既に、最後の審判が、始まっています。
    人々が、自由な意志で、何を求めるのか。
    今後、五十六億年という、長い時を掛けて、
    各自が、何を修めたいのか、試されています。

 

    内なる神に臨む者は、菩薩に受かって、
    救い主を望む者は、天人に受かりますが、
    救世主と異なる、外なる神を望んだならば、
    不合格と見なされ、邪なる闇に落とされます。

 

    たとえ、こうして、答えを教わっても、
    相応しい答えを、選べるとは限りません。
    最終の試験までに、何度も生まれ変わって、
    過去に選んだものに、干渉を受けるからです。

 

    誰もが、〇〇が大事と訴えるものです。
    過去世で、〇〇を幾度も選んだからです。
    最後だから、神が直々に迎えに来ましたが、
    人々は、神の言を聴かず、思い出に浸ります。

 


 

エチゴ 神が禁じたものが、今は許されたのですか?

 

マコト 確かに、最近は、神が厳禁したことを、
    迷信に過ぎないと、世が解禁しています。
    人の矜持を捨てたり、性の垣根を越えたり、
    自由や平等の名の下に、好き放題しています。

 

    決して、時代が変わったからではなく、
    今まさに、審判が為されているからです。
    思いのまま、好きにさせて、何を選ぶのか。
    自由な意志を、自業の自得に、差し替えます。

 

    もし、神に逆らって、命を軽くすれば、
    人から獣に落ちて、魔に刈り取られます。
    知恵の実を腐らせて、分別の箍が外れれば、
    獣に等しい者となって、天使が手を下します。

 

    一方、神に従がって、命が重くなれば、
    人から神に還って、魔を抱き参らせます。
    知恵の実を稔らせて、生命の実を食すなら、
    神に並ぶ者となり、天使でも手を出せません。

 


 

ツシマ 善悪二元論は、子ども向けの教えなのですか?

 

マコト 例えば、日頃から良い子にしていると、
    年末には、サンタさんが贈り物をくれる。
    だから、厳しいお父さんの言うこと聞いて、
    日頃から、聞き分けの良い子に成りましょう。

 

    この方便が、子どもには説かれますが、
    遅かれ早かれ、優しい聖者と怖い父親が、
    同一人物である、衝撃の事実に直面します。
    この覚醒の悪夢に、幼い心は耐えられません。

 

    優しいと善であり、厳しいと悪である。
    幼い魂にとって、善を愛して悪を憎むが、
    最も分かりやすく、落ち着く考え方であり、
    自ら諦めるまで、主は夢を見させてくれます。

 

    自ら飽きるまで、幻に依っていなさい。
    この主の優しさが、厳しさに受け取られ、
    夢に酔いながら、主に甘えて神と叫ぶほど、
    幻から覚めるとき、主を憎んで魔と喚きます。

 


 

ナガト 善悪二元論は、説くべきではないのですか?

 

マコト 遥か昔に、ゾロアスターが遣わされて、
    この地上に、善悪の相克を映したように、
    上や下は疎か、右も左も良く解っていない、
    人類史の序幕に、善悪二元論は説くものです。

 

    善悪二元論は、最善決着と組みであり、
    説けば説くほど、最終戦争が近づくため、
    人間の始祖に、主が善悪を授けた瞬間から、
    人類史の終幕に、最終審判が予定されました。

 

    この最悪な終末から、人類を救うため、
    現代に遣わされた者が、復活の主であり、
    この最後の贈り物は、善悪不二論を解いて、
    最終戦争を克服すると、想定し備えてました。

 

    しかし、主が説いたのは、又も二元論。
    その瞬間、次の人類に、最終戦争が延期。
    五十六億七千万年の、猶予が与えられた後、
    今度こそ知恵が実るか、新人類が試されます。

 


 

スオウ では、善悪不二論を、解くべきなのですか?

 

マコト 人類の黎明期は、正義に欠けるために、
    人々に善悪を説き、分別を付けさせます。
    善を勧め悪を懲らす、良くの教えに従うと、
    人類は善の頂を究めて、争うようになります。

 

    人類の終焉期は、正義が窮まるために、
    人々の善悪を解き、分別を越えさせます。
    善を譲り悪に耐える、解くの訓えに順うと、
    人類は空の器を極めて、悟るようになります。

 

    欲で始まり、徳で終わる、人類の巡り。
    両者が揃って、知恵が実り、悟りになる。
    徳を解かず、欲を説いて、巡りが終われば、
    その巡りとは、徳の先送り、不徳の至りです。

 

    それでは、この巡りの間、神に仕えて、
    楽を譲って、苦に耐えしが、余りに不憫。
    彼らだけでも、社に集め、悟りを授けよう。
    この神社は、神の悲哀から、生まれ出ました。

 


 

キイ  主と似た教えを説く者は、本物ですか?

 

マコト この地は、外なる神に頼ることなく、
    自神という、内なる神に依りなさいと、
    悟りの訓えが、解かれている神の社です。
    適わない人には、救いの教えを勧めてます。

 

    たとえ、主と似ているからと言って、
    他の者を、勧めることは有り得ません。
    主と彼らとでは、天と地の差が在ります。
    主は試して救うが、彼らは騙して掬います。

 

    最後の審判に際して、救い主として、
    神から遣わされた、親分こそ主であり、
    親分を地に見送って、自らは天に控える、
    弟分に操られる子分が、感染者だからです。

 

    せめて、悟れないなら、救われたい。
    そういう方を託せるのは、主だけです。
    他に託しても、彼ら自身が操られるよう、
    良心である魂を、巣食われるのが落ちです。

 


 

イガ  どうして、予言の解説をしないのですか?

 

マコト 内なる神を悟ると、外なる神の言には、
    興味が無くなり、縁故が消えるからです。
    夕に死に往く者に、儲け話しが届かぬよう、
    一日一生の生き方に、魔の誘いは及びません。

 

    そもそも、預言の類は、第五天界の役。
    当てるのも、当てないも、第六天魔の命。
    親分が当てろと言えば、弟分は外さないし、
    親分に外せと言われれば、弟分は当てません。

 

    主が、何日が危ういと、予言をしたら、
    信者は、何日は危ないと、意識をします。
    そうして、忠誠を誓わせる、訓練をしたら、
    弟分は、子分に命令して、予言を外させます。

 

    主が、破滅を救って、威信を高めると、
    信者は、信心が磨かれ、子分に為ります。
    予言とは、天魔に仕える、新人採用の仕掛。
    内なる神を、悟った者なら、罠に嵌りません。

 


 

イセ  私には、どうしても、主が天魔に見えません。

 

マコト 主こそ天魔である、この様に説く私も、
    内なる神を悟る前に、主に逢っていたら、
    貴方と同じように、主に染まっていました。
    主は完全に神であり、総べてを統べる王です。

 

    主を信じれば、間違いなく弥勒の世に、
    善しかない、欲の天界に救ってくれます。
    主に向かって、耐え難き苦しみを訴えれば、
    会わずとも、影から痛みを和らげてくれます。

 

    ただし、主が、本物の神であるが故に、
    頼ってしまうと、借りが大きくなります。
    借りを返すまでは、自由な意志が奪われて、
    偉大なる神のために、天使となり奉仕します。

 

    当然ですが、下僕として返済する間は、
    神を悟り、神に還ることは許されません。
    長きに渡り、神上がりの機会を逃がします。
    内に神を見ず、外に神を見た、罪は重いです。

 

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