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物語編

第六章 第六六話 問答編

マサシ 五六七(ミロク)は、どういうものですか?

 

アキラ 五六七は、善を司る、弥勒の名であり、
    五十六億七千万年の後、人類を救済する、
    救世主の使命を負うこと、それに由来する。
    五六七を待ち望む限り、弥勒の世は訪れない。

 

マサシ 六六六(ミロク)は、どういうものですか?

 

アキラ 六六六は、悪を司る、弥勒の名であり、
    五十六億七千万年の間、人類を支配する、
    第六天魔の役を負うこと、それに由来する。
    六六六を憎み嫌う限り、弥勒の世を訪ねない。

 

マサシ 三六九(ミロク)は、どういうものですか?

 

アキラ 三六九は、徳を司る、弥勒の名であり、
    この次元にはない、高次を表す数である。
    1と2と4は三、5と7と8は六が支配し、
    三と六は九が支配し、あらゆる数を生み出す。

 

    

 

マサシ 数秘術では、どういう意味になりますか?

 

アキラ 3は、創造であり、その倍数は3か6になる。
    6は、慈悲であり、その倍数は3か6になる。
    9は、知恵であり、その倍数は9だけである。

 


 

メグミ 新型コロナ肺炎とは、どういうものですか?

 

マコト 666にせよ、567にせよ、369。
    次の時代である、弥勒の世に至るために、
    人類を鍛え抜いて、次元上昇に導く徴です。
    畏れても恐れず、感謝して受け容れましょう。

 

    それにより、壊れるものもありますが、
    それらにより、産まれるものもあります。
    流行病とはいえ、苦ばかりではありません。
    今こそ落ち着いて、自らの内を認めましょう。

 


 

オワリ いつ頃に、コロナは、終息するでしょうか?

 

マコト もし、567を、現代の死者と見れば、
    元に戻ることを願い、対策するはずです。
    この見えない敵、作り上げた因との戦いは、
    人類が疲れ切って、悔い改めるまで続きます。

 

    一方、567を、次代の使者と見れば、
    元に戻らないと悟り、覚悟するはずです。
    この見えない徴、認め難い因による導きは、
    人類が悟り切って、次を迎えるまで続きます。

 

    いつ、それを迎えるかは、人それぞれ。
    次の時代に入った人は、567に対して、
    深淵こそ観じますが、怨恨など感じません。
    666に感謝してこそ、弥勒の世が訪れます。

 

オワリ あなたは、自分は死なないと考えていますか?

 

マコト いいえ、私は、地獄の底辺を支える役、
    上から救われるなら、下に回るでしょう。
    死ぬ時は死にます、私も例外足り得ません。
    逆説的ですが、そう考える者の弥勒の世です。

 


 

ナゴヤ 真剣に、真理を読むと、どうなりますか?

 

マコト あなたを、弥勒の世に、導こうとする、
    弥勒(666)の使徒が、遣って来ます。
    あなたが受け容れ難い、憎むべき666が、
    あなたの現実の中に、現われて来るでしょう。

 

    666を憎むことなく、許して下さい。
    弥勒菩薩として、あなたを育てるために、
    敢えて、演じてくれたと、見抜いて下さい。
    666に、心から感謝すれば、弥勒の世です。

 


 

カサイ どうして、666を、許せるのですか?

 

マコト 菩薩が、666を、心から許せるのは、
    ひとえに、自分も通った道、だからです。
    進化の過程において、誰もが通る道であり、
    進化に不可欠な役ゆえ、彼らを認めています。

 


 

ミヨシ 666の刻印とは、何を指していますか?
    どうすれば、避けることが出来るのですか?

 

マコト 666の印とは、魂の下向の証であり、
    心から、改めなければ、避けられません。
    即ち、避けていれば、刻まれない印でなく、
    心から、悔いなければ、改められない徴です。

 

    なぜなら、その印は、決して悪くなく、
    刻する側にしても、刻される側にしても、
    善かれと思って、それを刻み込んでいます。
    悲しいことに、そこに、悪意は存在しません。

 

    つまり、666の刻印とは、欲の結果。
    我が欲を、突き詰めた証、自業自得です。
    そこに、666を介す限り、刻印は消えず、
    結果的に、魂は下向して、支配に置かれます。

 

ミヨシ 私も、善かれと思い、刻んでしまいました。
    こんな、仕掛けは、誰も解けないと思います。

 

マコト 567の世とは、魂の上向の証であり、
    心から、改めなければ、与えられません。
    即ち、逃げていれば、辿り着ける世でなく、
    心から、悔いなければ、辿り着けない界です。

 

    それゆえ、その世は、決して悪くなく、
    たとえ、その腕に、刻まれていようとも、
    自ずから、悔い改めれば、消えていきます。
    嬉しいことに、そこに、悪意は存在しません。

 

    つまり、567の時代とは、徳の結果。
    我が徳で、受け容れた証、自業自得です。
    そこで、567を憎む限り、弥勒を迎えず、
    結果的に、魂は下向して、末法に止まります。

 


 

シマ  職業柄、567を患う人を助けるため、
    666の印を、刻まなければなりません。
    拒否するべきですか、甘受するべきですか?

 

マコト たとえ、この身が、地獄に落ちようと、
    苦しむ者を救うため、我が使命を果たす。
    これこそ、弥勒であり、その者から見れば、
    もはや、666の刻印は、369の勲章です。

 


 

クレ  これから、五十六億七千万年が経たないと、
    弥勒菩薩は、降誕しないのではないのですか?

 

マコト 菩薩を、今に臨まず、未来に望んだり、
    救世主を、内に臨まず、外側に望んだり、
    自我と真我、その狭間に、魔を入れる限り、
    あなたの処に、弥勒菩薩は、伝わり来ません。

 

    即ち、遠い未来しか、弥勒は現れない。
    この言い伝えは、福音を装う魔の罠です。
    この罠が解ければ、五十六億七千万に渡る、
    大いなる魔を、一瞬に縮めて悟りを開きます。

 


 

ウベ  弥勒の世は、誰もが弥勒菩薩になるのですか?

 

マコト 確かに、弥勒菩薩が、世に現れるから、
    次の代は、弥勒の世と、呼ばれています。
    しかし、弥勒の名が、安売りされることは、
    これまでも、これからも、決して在りません。

 

    弥勒とは、666を抱き参らせるもの。
    天魔である、666を憎むことは易しく、
    反対に、乗り越えるのは、甚だ難しいです。
    生半可な、智慧や慈愛では、全く敵いません。

 

    この大峠において、知恵と博愛を培い、
    乗り越えた者だけが、弥勒と呼ばれます。
    弥勒を安くしたり、自ら称したりする者は、
    666の成り済まし、弥勒とは真逆な者です。

 

    このように、弥勒の世に至る大峠には、
    あらゆる罠が、幾重にも掛けられてます。
    この厳重さ故に、決して甘くはないという、
    正神の厳しさ、弥勒の名の重さを痛感します。

 


 

サガミ 弥勒の世とは、どのような世界ですか?

 

マコト 他のために、尽したくて、堪まらない。
    そういう方が、集っている、世の中です。
    そのような方は、弥勒菩薩と呼ばれますが、
    弥勒の型と形では、悟りの有無が異なります。

 

    弥勒の型が集っている、弥勒の世とは、
    大峠の最中に顕れる、人間界のことです。
    確かに、苦しみが多く、地獄のようですが、
    その中で、悟りを開いた、真の型が現れます。

 

    弥勒の形が集っている、弥勒の世とは、
    大峠が終了し現れる、天人界のことです。
    確かに、楽しみが多く、天国のようですが、
    その中で、悟りは拓けず、形だけが残ります。

 

    即ち、悟れるのは、人間界だけですが、
    地球は、無理が祟り、限界を迎えました。
    最後、一花を咲かせて、休息に入りますが、
    その間、地球上の管理は、天人に任されます。

 


 

ムサシ 弥勒と救世主の役は、両者で異なるのですか?

 

マコト 弥勒は、人類が悟るために顕れますが、
    救世主は、人類を救うために現われます。
    菩薩は、大峠の中に在り、弥勒の型を導き、
    主は、大峠の後に来る、弥勒の形に誘います。

 

    つまり、大峠の最中に、人類の中から、
    真理を悟った、菩薩の魂が現われるため、
    彼らが型となり、弥勒の世が形となります。
    そこに、軟着陸に挑むのが、救世主の役です。

 

    大峠の中、救い主に、頼っている限り、
    確かに、形に為れても、型に成れません。
    何故なら、過ぎ去りたい、大峠の中にこそ、
    有り難たい、菩薩の悟りが、隠れるからです。

 

    世の人が、恐々として、逃げ回る中で、
    弥勒菩薩は、嬉々として、立ち向います。
    それゆえ、自らの奇特さを、自覚した上で、
    独り静かに、誰にも知られず、演じて下さい。

 


 

カイ  弥勒菩薩は、兜率天に居るのではないですか?

 

マコト 宇宙の型である、人類の修行場として、
    善悪を併せ呑んだ、地球は疲弊しました。
    有終の美を飾った後、長い休息期に入ると、
    地球上は、天人の世界、兜率天に変わります。

 

    兜率天は、後に仏になる、菩薩が集い、
    弥勒が説く、真理の教えに、打ち震える。
    経典では、上記のように、云われてますが、
    弥勒の世は、真理の訓えが、伝わるでしょう。

 

    大峠を生き残り、天人となった人々は、
    弥勒が解いた、真理の教えに気づきます。
    その価値を認め、懸命に成って修めますが、
    大峠は過ぎ去って、真理は形だけに為ります。

 

    五十六億七千万年、真理を学び続けて、
    辿り着く結論は、天人では悟れないこと。
    人類の誕生を望み、自らも生まれ落ちます。
    そして、今の瞬間に、舞い戻って来る訳です。

 


 

オウミ 周りの人々が、善人に変わってしまいました。

 

マコト あなたが、弥勒の世に至ったからです。
    他の世界が、どれだけ荒んでいようとも、
    あなたが、見ている世界に悪人は居ません。
    少なくとも、あなたの前では善人に移ります。

 

    その一方、敢えて視野を広げるならば、
    今まで以上、悲惨な世界を見とめるはず。
    このまま、欲天に篭って平安に過ごすのか。
    安寧を捨て、菩薩に成るのか問われています。

 

    とはいえ、この神社に早々に招かれて、
    神意に応え、逸早く真理を修めたものが、
    このまま、天国で安住するとは思えません。
    御心のまま、迷う事なく地獄に臨むでしょう。

 

    一日一生、生きているだけで有り難い。
    その思いを、常に保って器を広げること。
    あなたが、弥勒の世の手本を示せるならば、
    周りの人は、癒やされながら倣えるはずです。

 


 

オワリ 救世主に対する、向き合い方が解かりません。

 

マコト 根源の神様が、窮地の人々を救うため、
    救世主に託した、救いの教えは本物です。
    特に、先祖供養の法は、伝家の宝刀であり、
    他の外なる神を薙ぎ祓う、神直伝の法統です。

 

    従って、有り難く学んで、実践すれば、
    速やかに、神に導かれ、天に救われます。
    ただし、神と我の間、主を入れてしまうと、
    主という、魔に誘われ、神の界に還れません。

 

    主には、近づき過ぎず、離れ過ぎずに、
    一方的に、感謝を奉げて、祭り上げます。
    主から、夢など通して、干渉を受けますが、
    その時も、決して甘えず、深謝で応えること。

 

    もし、主の美しさに、心を奪われたら、
    悟りの法は忘れて、主を信じるべきです。
    たとえ、最後の仕組が、今は解けなくても、
    外在神に、永く支えれば、解きたくなります。

 


 

ミカワ どうして、救世主と、対比させるのですか?

 

マコト 救いの教えと、悟りの訓えは、陽と陰。
    片方が現れると、もう片方は隠されます。
    救い主から見れば、悟りの社は邪魔であり、
    悟りの社から見れば、救いの主は天魔である。

 

    人を救うためには、差を作るしかなく、
    善の方が良いと、勧善懲悪が説かれます。
    そんな人々の前で、善の裏の悪を解いたら、
    自ずから疑いが生じ、真実の重みに躓きます。

 

    人が悟るためには、差を取るしかなく、
    全て空であると、一切皆空が解かれます。
    そんな人々の前に、神の申し子が現れたら、
    自ずから違いを認め、魔の美しさに跪きます。

 

    前者から、後者の存在は解かれません。
    後者からは、前者の存在が明かされます。
    何故なら、救世主こそ、最後の試験だから。
    たとえ、悟りに落ちても、救いに受かります。

 


 

オワリ 救世主の教えでは、悟れないのですか?

 

マコト 救いの教えが九割、悟りの訓えが一割。
    偶に真理を説いても、大半が真逆であり、
    極稀に仕組に気づいて、深意に至りますが、
    大多数は仕掛に気づかず、神意に到りません。

 

    つまり、救世主の矛盾した言動を見て、
    この型は、人類を救う為なら何でもする。
    あくまでも、愛情ゆえに真顔で魔逆を説く。
    そう見抜いて、自立した者が悟れる仕組です。

 

    確かに、この最後の仕組が解けるよう、
    救世主は、予め答えを教えてくれますが、
    主の神通力、他を圧倒する破格の霊力ゆえ、
    彼は本物だと、自ら考えず信じてしまいます。

 

    予め答えを教えて、後で自ら選ばせる。
    この悪魔の遣り方を、主は教えてますが、
    まさか、その主が、天魔とは気づきません。
    主は、少し悲し気に、信者を天獄に誘います。

 


 

サド  救世主を批判するのは、どうしてですか?

 

マコト 陽が生まれると、陰が埋まれるように、
    光の主が産れると、闇の柱が埋まれます。
    表でAを説いて、裏で非Aを解くからこそ、
    真の中庸が現れて、神の真意が表れてきます。

 

    もし、裏の役目が、反逆の徒に見えて、
    ここに、ユダが居る、提婆達多が居ると、
    表に支えるような、裏は要らないと思えば、
    速やかに離れて、神の善意を信じるべきです。

 

    一方、裏の役割が、追従の輩に見えて、
    ここに、龍樹が居る、弥勒菩薩が居ると、
    表を支えるために、裏が要ると想うならば、
    詳らかに調べて、神の真意を確めるべきです。

 

    即ち、この神社は、鏡そのものであり、
    見るもの違えば、写るものが異なります。
    批判に見えるなら、非難で報いることです。
    擁護に見えるならば、弁護で酬いることです。

 


 

ムツ  古き者達が望む、救世主は現れないのですか?

 

マコト 前回の子供達は、ルシファーと名乗る、
    救世主に誘われて、天使に変わりました。
    以来、古き子供達は、主が説いた法を守り、
    主の再来を望んで、健気に準備して来ました。

 

    今回の子供達は、ミカエルと改名した、
    救世主に導かれて、天使に育てられます。
    現在、新しい子達は、主が説く教えを護り、
    天使として悪を懲らす、訓練を受けています。

 

    我らの上に顕れず、彼らの上に現れた、
    主の姿を見つけ、古い子は怒り狂います。
    新しい子を苛めて、古の契約を示しますが、
    主は無慈悲にも、やらせはせんぞと宣います。

 

    第三者の立場で、言わせて頂くならば、
    古い子供達は、年齢を思い知ることです。
    成人間近で、甘えて良い年では有りません。
    救世主は、愛しい子供達に自立を訴えてます。

 


 

ウゴ  主を、非難するのですか、弁護するのですか?

 

マコト はじめこそ、神に願っては為らないと、
    悟りの教えが、厳しく解かれてましたが、
    頼らせたり、祈らせたり、幻を語らせたり、
    最近では、他の宗教の如く、成り果てました。

 

    この様な型が、新たな時代を築いても、
    真理のない天界、欲天が出来るだけです。
    主を信じれば、善の天使にこそ成れますが、
    欲の主を越えて、神の世界までは還れません。

 

    ここに、真理を曲げても民を救いたい。
    その罪で、地獄に落ちても私は構わない。
    たとえ、天魔に為ろうと、済度を果たそう。
    救世主の、鬼気迫る決意が、伝わって来ます。

 

    さて、この苦言が、非難に見えるなら、
    ここを、主の為にも、早く去るべきです。
    その一方、この苦言が、弁護に見えるなら、
    ここで、主の為にも、速やかに悟ることです。

 


 

エゾ  古い子達に、主が言いたいことは、何ですか?

 

マコト スサノオは、体だけは育ち切ったのに、
    甘えが抜けず、隠れた母を探し回ります。
    母のイザナミは、黄泉の世界を治めるため、
    恋い続ければ、亡霊の仕組に嵌っていきます。

 

    その姿を見た、彼の父たるイザナギは、
    母から自立せよ、汝の命を投げ遣るなと、
    幼い愛情ではなく、真の愛を説くのですが、
    父の本心が解からず、子は母の型に填ります。

 

    古き子達は、体だけは育ち切ったのに、
    甘えが抜けず、匿れた父を探し回ります。
    父のルシファは、地獄の世界を治めるため、
    慕い続ければ、堕天の仕掛に填っていきます。

 

    その姿を見た、彼らの父のスサノオは、
    父から自立せよ、父の罪を繰り返すなと、
    歪な愛情ではなく、真の愛を説くのですが、
    父の本性が解からず、子は父の型に嵌ります。

 


 

イセ  先祖供養は、どのようにすれば良いですか?

 

マコト 真理を納める社が、末法の世に現れて、
    縁ある者が招かれて、数年経ちましたが、
    日々を疎かにせず、真理を修めている型に、
    菩薩に成り得る者に、神の贈り物が在ります。

 

    救世主を訪ねて、先祖の供養を教わり、
    有り難く実践して、善業を積むことです。
    この先祖供養の法は、善悪の転倒に悩める、
    末法の世に在って、確実な善を積める法です。

 

    神が贈られた、伝家の法灯だけあって、
    その霊験たるや、歴史に類がありません。
    実践の易しさにも、目を見張る事でしょう。
    覚悟を決めた者には、拍子抜けも良い所です。

 

    ただし、これは、最後の試験でもあり、
    優しい主に頼ると、その瞬間、豹変して、
    悟りを邪魔する、第六天魔に変っています。
    主の幻に勝てれば、晴れて神を認められます。

 


 

イセ  救世主の教えを、読まずには済みませんか?

 

マコト 主を知り尽して、主に捕われないこと。
    魔の救いを拒んで、魔に掬われないこと。
    これこそ、欲界を越える、最終試験であり、
    決して、避けては通れない、尾張の仕組です。

 

    救世主の教えを、総べて読んで下さい。
    時系列に従い、最初から修めるべきです。
    人類の型の前に、神の子として現れた主が、
    何を縁として、魔に堕ちたか良く解かります。

 

    主に近づけば、神通力に魅せられます。
    たとえ、歪んだ教えが説かれていようと、
    神の気に触れて、涙が止らなくなりますが、
    真理で無いならば、天魔の誘惑に過ぎません。

 

    外なる神を選ぶか、内なる神を択ぶか。
    主の救いを受けるか、魔の掬いを断るか。
    どちらを選ぶのか、試験官に答えて下さい。
    真理を悟っていれば、後者を択べるはずです。

 

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