第三章 第三話 問答編
マサシ 無明(ムミョウ)とは、どういうものですか?
アキラ 無明は、条件を決めて、因果が定まり、
即ち、実感が生じて、認識が固まること。
無明は、根本の煩悩で、すべての因となり、
無明の闇に、Aを隠すと、非Aが現れてくる。
マサシ 行蘊(ギョウウン)は、どういうものですか?
アキラ 行蘊は、因果を決めて、因縁が重なり、
即ち、経験が生じて、認識が重なること。
行蘊は、認識の蓄積で、すべての縁となり、
自我の蘊が、条件となり、因果を解している。
マサシ 七科三十七道品とは、どういうものですか?
アキラ 七科三十七道品は、仏が説き明かした
七つに分かれる、三十七の修行法である。
悟りに至る法であり、菩提分法と呼ばれる。
巴語、ボーディパッキヤー・ダンマーである。
第一科、四念処であり、正しい観じ方のこと。
第二科、四正断であり、正しい努め方のこと。
第三科、四神足であり、神通力の基礎のこと。
第四科、五根であり、隠れている能力のこと。
第五科、五力であり、現れている能力のこと。
第六科、七覚支であり、覚醒に至る行のこと。
第七科、八正道であり、苦を滅する道のこと。
シモダ 一体、無明の闇とは、どういうものですか?
マコト 無明とは、認識を固定することであり、
認識を、固定すると、実感しやすくなり、
逆に、解放すると、達観しやすくなります。
纏い過ぎても、脱ぎ過ぎても、活かせません。
これを、感動の大作、映画に譬えると、
無明とは、画面操作に、相当しています。
脚本に従い、撮影画面が、決まるからこそ、
主役に纏わる、物語が進み、共感が生じます。
一方で、主役の実感が、増えた分だけ、
その裏で、端役の実感が、減らされます。
認識対象が、画面の動きに、縛られるため、
脇見が出来ず、感情の移入を、拒むからです。
逆に、無明の闇が、消え去ったときは、
自由に、画面を外れ、視点を移せるため、
役の差が、消え去って、隅々まで解します。
これが、悟りであり、無明を越える智慧です。
イナバ 最近、現実を見ても、映画に観えてきて、
反対に、映画を観ると、現実に見えてます。
マコト その境地を、体験的に実感できるのは、
無智が晴れて、智慧が生じている証です。
この地から、そういう型が現れ始めたのは、
暗い世の中に、福音が届いたようなものです。
このさき、更なる闇が、晴れて行けば、
たとえ、目を閉じて、目を開けたときに、
今までと、全く異なる、世界が広がろうと、
違和を、感じることなく、受け容れられます。
更に、進んで行くと、何を見ていても、
初めて、会ったような、感動を覚えます。
即ち、平凡な現実に、非凡な幻想を見つけ、
有り触れた軌跡に、有り難い奇跡を認めます。
このように、世界の闇が晴れていくと、
窮地の人々が、災禍の出口に気づきます。
あなたのように、真剣に真理を修める者は、
幕引きの役を果す、機会に臨んでいる訳です。