第五章 第三三話 問答編
マサシ サタンとは、どういうものですか?
アキラ サタンとは、悪魔の頭領の名前であり、
ヘブライ語で、「敵対するもの」である。
天使であったが、神に背いて堕天使となり、
地獄の長となって、悪魔を従える者となった。
マサシ 義人(ギジン)とは、どういうものですか?
アキラ 義人とは、悪を許さず、敵を憎むもの。
我が善を譲らず、他の悪を許さない者は、
譲らない善が、味方する天使として表れて、
許されない悪が、敵対する悪魔として現れる。
マサシ 聖人(セイジン)は、どういうものですか?
アキラ 聖人とは、悪を許して、敵を愛すもの。
我が善を譲って、他の悪を見とめる者は、
譲られた善が、回心する天使として表れて、
認められた悪が、改心する悪魔として現れる。
ヤイタ これから、悪人に、神罰が降るのですか?
マコト 神が、罰を与えることは、在りません。
人々が、器の限界まで、積み重ねた業が、
いよいよ、解き放たれて、跳ね返されます。
それが、天罰が降った様に、見えるだけです。
ヤイタ 生きながらに、業の果報が見られるのですか?
マコト 我は、特別であると、我が肥えた者は、
生きながら、罪人として、世の仇となり、
その死後、地獄に落されて、我を殺ぎます。
生前に兆候が表れ、死後は比較に為りません。
我は、特別でないと、我を越えた者は、
生きながら、菩薩として、世の型となり、
その死後、浄土に招かれて、仏に見えます。
生前に兆候が現れ、死後は比較に成りません。
つまり、上の者は下に、下の者は上に、
天と地が、真っ逆さまに、引っ繰り返る、
一厘の仕組、最終の審判が、始まりました。
我を出し、神を騙る者は、十字に架かります。
チノ 次々に、大事な物が、壊れて行きます。
抑えていますが、怒りが湧き上がります。
マコト 例えば、幼い子供が、毛布に愛着して、
いつでも、持ち歩いて、汚れていました。
新しく、取り換えようと、取り上げたなら、
その子は、泣き喚いて、怒りを向けて来ます。
同様に、あなたが、愛着している物を、
神は、誰かを使って、取り上げて来ます。
たとえ、その人が、どんな悪人に見えても、
彼は、使われただけ、怨むのは筋が違います。
もちろん、恨まないのが、最高ですが、
誰かを怨みたければ、神を恨むべきです。
そうすれば、そのまま、我に跳ね返るため、
速やかに、改心に繋がり、成長に導かれます。
その一方、神を恨まず、他を怨むなら、
神と自らの、間に入って、魔と為ります。
そのまま、業が跳ね返らず、絡み合うため、
悔い改めが、難しくなり、悟りを邪魔します。
リフ 試練が続きますが、私は誰も恨みません。
襲い掛かる苦しみを、有り難く頂戴します。
マコト 楽の中に空は遠く、苦の中に空は近い。
苦しみの中に在って、感謝を覚えるとき、
あなたは、自らの内に、真我を憶えてます。
止らぬ、憂いの涕が、喜びの涙に変わります。
そのためには、死を覚悟することです。
この尊い人生の、有終の美を飾るために、
威儀を正して、自らの生命を神に捧げます。
最初は無様でも、最期は美しく消え去ります。
こうして、最低に際し、最高に挑むと、
今まで、自らを苦しめた、痛みや悩みが、
あたかも、悪い夢から、覚めたかのように、
瞬時に、生命の代わりに、消え去っています。
この空の体験、生まれ変わりの儀式を、
幾度も繰り返し、内なる神に近づきます。
誰も怨まなければ、誰も邪魔に入りません。
天魔にさえ認められ、神の御許に導かれます。
ツナン あなたも、試練を通り抜けて来たのですか?
マコト まだ、世の中が、浮かれていた時から、
独りで、峠に入り、切り拓いて来ました。
人よりも、早く入っただけ、早く出たため、
以前も今も、世の中から、少し浮いています。
ツナン どのような、試練を乗り越えて来たのですか?
マコト 喩えるならば、旧約聖書のヨブ記です。
先に与えられて、後で奪われてしまう点。
人に聞けない処か、逆に責められている点。
天涯孤独、神と向き合う所が、良く似てます。
ヨブ同様、これらの耐え難き苦しみを、
大半を我が所為に、少々を神様の所為に、
加えて悪魔の所為に、全くしなかったため、
悪魔に邪魔されず、神を知る事が適いました。
彼と違う点は、何も望まなかったため、
神が外に現れず、我が内に表われたこと。
神に奪われた物が、何も戻らない代わりに、
この神社を掃除する、使命を頂いたことです。