第六章 神々の闘い ヒンズー編 あらすじ
この章は、すべてが明らかにされる、章である。
この物語で起きたことは、すべてが必然であって、
偶然に見えているのは、カルマが解らない故である。
何故、このとき、彼は、この感慨を抱いたのか。
何故に、あのとき、彼は、あの行為を選んだのか。
カルマが伏線であり、あらゆる伏線を回収していく。
智徳は、最終戦争を回避するべく、偏りの元凶、
神の子を屠り、天に還すことを、王に提案するが、
法徳は、「我が信を越える」と言って、それを拒む。
法徳は言う。欲に塗れて、善を突き詰めた結果、
自分を導くはずだった、老師を殺すことになった。
再び、欲に塗れて、善を掲げれば、同じ道を辿ると。
智徳は省みる。欲に塗れ、善を敷き詰めた結果、
自分が守るはずだった、老師を殺すことになった。
再び、欲に溺れて、善を訴えれば、同じ轍を踏むと。
智徳が主に思えば、法徳に同じことを想われて、
智徳が主に逆らえば、法徳に同じように叛かれる。
こうして、智徳は、鏡張りの世界に閉じ込められた。
どこまで考えても、鏡の世界から抜け出せない。
万策が尽きたときに、未知なる出口が見つかった。
智慧の菩薩の彼に、無思考という、思考は無かった。
良く考えているから、良くを突き詰めてしまう。
良く考えなければ、良くが飽くに変ることはない。
その結論に辿り着くや否や、彼は卒倒してしまった。
智徳は、何も考えない、前世の記憶を辿る旅に出る。
無意識の前世の記憶に、すべての答えがあった。
何故、智徳は仏を探して、悪行を強いられたのか。
何故に、法徳が狂信を憎み、師の教団を潰したのか。
何故、主は、彼らに、厳しい試練を課したのか。
何故、智徳は、主に叛き、権力の側に売ったのか。
何故に、法徳は、主に背き、民衆の側に立ったのか。
すべてを思い出し、カルマが明らかになった時、
すべてが必要であり、神の計画だったことを悟る。
在りのままでいい、この世界は初めから美しかった。
この福音を伝えようと、誰も耳を貸さなかった。
福音を享けるために、人類は経験が足りていない。
魚座の時代の、二千年を掛けて、悟る必要があった。
我が善を疑わない、怒りに任せた民衆によって、
救世主(贖罪の山羊)は、十字架刑に処せられた。
この瞬間、暗黒の時代、人類は主なき世に突入する。
そして、このときから、二千年が経った、現在、
魚座の時代から、水瓶の時代に入ろうとしている。
現代の我々は、運命の別れ道に、生まれて来ている。
この生は、すべてが明らかにされる、生である。
この人生で起きたことは、すべてが必然であって、
偶然に見えているのは、カルマが解らない故である。
二千年間に、経験が満ちて、カルマに気づけば、
救世主(真理の御霊)が、人々の心に宿るだろう。
その瞬間、黄金の時代、人類は弥勒の世に突入する。
弥勒には、表の顔(567)と裏の顔(666)
どちらも認めない限り、弥勒の世は見とめられない。