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物語編

第六章 第二九話 問答編

マサシ 如去(ニョコ)とは、どういうものですか?

 

アキラ 如去は、タターガタの、ある面のこと。
    梵語では、タター・ガタと、呼んでいる。
    語意は、真如を悟って、煩悩を滅したもの。
    羅漢の型として、如去は、涅槃に去って行く。

 

マサシ 如来(ニョライ)は、どういうものですか?

 

アキラ 如来は、タターガタの、ある面のこと。
    梵語では、タタ・アーガタと、呼ぶもの。
    語意は、真如を悟って、智慧に至ったもの。
    菩薩の型として、如来は、輪廻に救いに来る。

 

マサシ 十号(ジュウゴウ)は、どういうものですか?

 

アキラ 十号は、如来が有している、十の称号のこと。

    第一に、供養を受けるに値する、応供である。
    第二に、平等の真理を悟った、等正覚である。
    第三に、智と行を具足する者、明行足である。
    第四に、迷妄を断ち解脱する者、善逝である。
    第五に、世間を良く理解する、世間解である。
    第六に、この上なく優れた者、無上士である。
    第七に、人の心を統御する、調御丈夫である。
    第八に、天の神々を指導する、天人師である。
    第九に、真理を悟り目覚めし者、仏陀である。
    第十に、世界の中で最も尊い者、世尊である。

 


 

アイヅ 薬物で、神に会うことは、出来ませんか?

 

マコト この先、どれだけ、科学が進歩しても、
    少しでも、思いのままが、残っていれば、
    決して、在りのままの、神には臨めません。
    その種は、進化が窮まり、衰退して逝きます。

 

    同様に、薬物を用いて、神を見ようと、
    その神は、自分が見たい、外の神であり、
    決して、自我を越える、内なる神ではない。
    真の神は、我が壊れると、内から現われます。

 

    つまり、真正なる神に、会いたいなら、
    我の欲を、残らず越える、要が有ります。
    我を省みず、欲を望んでも、魔に遭うだけ。
    最終的に、我が魔となり、神を騙っています。

 

    神に臨めないのは、神を望まないから。
    自分だけの、理想の神を、望むからです。
    そうした、夢見る者に、声や姿を現したり、
    科学や薬物を授けるのは、他ならぬ天魔です。

 


 

タンバ 解らない処を、他に尋ねても、構いませんか?

 

マコト 真理とは、魔を超えて、神に還える道。
    それを、魔に尋ねるのは、愚の骨頂です。
    好い様に、魔に操られ、引き留められます。
    悪魔は、我と神の透間に、入り込んできます。

 

    従って、彼方が、真理を悟りたいなら、
    神と我の間に、何も介しては往けません。
    これは、救い主であろうと、例外ではなく、
    介したら、解するまでに、天の間を要します。

 

    もちろん、私を介しても、生けません。
    私が、直接に応えず、間接に答えるのは、
    すべて、我に尋ねさせ、神を訪ねさせない、
    魔の役を、演じることを、躊躇するからです。

 

    真理を介すのに、他に許可を求めたり、
    真理を解するのに、他の咀嚼が要るなら、
    もとより、その方に、この法は合いません。
    今回は、その他の型に、教えを乞いましょう。

 


 

ビゼン どうして、今までは、悟り難かったのですか?

 

マコト 悟りでは、欲界を超えて、解脱に至り、
    人間が、天魔を越えて、羅漢に到ります。
    あたかも、小学生なのに、中高生を抜いて、
    飛び級して、大学生になる、ようなものです。

 

    つまり、小学生が、大学生になるには、
    中高生の教えを、学ぶ必要が有りますが、
    天界の訓えは、人界の教えと、真逆であり、
    小学校では、解けない掟が、存在しています。

 

    従って、小学生が、大学に受かるには、
    過去の聖者方が、小学生に説いた教えと、
    魔逆の訓えを、自力に拠って見つけ出して、
    正統派に逆らい、見とめなければ成りません。

 

    古の仏により、真逆が説かれていても、
    自らの智により、魔逆を認められるのか。
    仏に会いて仏を殺せとは、実に此の事です。
    誰かの信者で在る限り、悟れないと言えます。

 


 

ビゼン どうして、今だけは、悟り易いのですか?

 

マコト 人間が暮らす地球は、小学校でしたが、
    後十数年もすれば、中学校に変わります。
    弥勒の世と呼ばれる、菩薩が教える天界に、
    救世主に誘われて、新しい天人が入学します。

 

    この神社に、納められている教えこそ、
    これから、彼らが修める天人の教えです。
    信じ続けた、救世主こそが天魔であったと、
    真逆に驚いて、悟りを拒む者が九分九厘です。

 

    悟りを拒み、天魔の救世主に仕えると、
    五十六億年後、立派な高校生に成ります。
    自らが魔となり、慌てて悟りを望みますが、
    人間の世界でしか、悟れないことを覚ります。

 

    人界である、かつ、天人の教えがある。
    後十数年だけ、二つの条件が揃ってます。
    この機会が、類い稀なことを思い知る者は、
    救世主に、救いを望まずに、悟りに臨みます。

 


 

ビンゴ 盲亀の浮木の喩えについて、教えて下さい。

 

マコト 欲界に於いて、真理に巡り合う確率は、
    百年に一度、盲目の亀が呼吸をするため、
    海面に顔を出した時に、海を漂う木の穴に、
    頭が入る確率に等しいと、喩えられています。

 

    実際、真理に巡り合い、悟るためには、
    人間界であり、かつ、天界の教えがある。
    この二つの条件が揃う、必要が有りますが、
    天法は人には禁忌であり、原則は揃いません。

 

    しかし、地球自体が、天界に上昇する。
    この移行期間に限って、例外が生じます。
    即ち、人間でありながら、天の法に触れる。
    決して、在り得ない機会に、恵まれています。

 

    完全に、天界に変わるまで、後十数年。
    数億年に、十数年だけが、真の正法です。
    後十数年で、悟りの舞台は、流されていき、
    天の人が、天の法を学ぶ、像法に変わります。

 

 

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