第六章 第四一話 問答編
マサシ 献身の瑜伽とは、どういうものですか?
アキラ 献身の瑜伽は、バクティの側面のこと。
梵語では、バクティ・ヨーガと呼ばれる。
あらゆる我がものを、神の元に捧げ出して、
我を忘れて、神を覚えて、神と合一していく。
マサシ 修身(シュウシン)は、どういうものですか?
アキラ 修身は、我を修めて、神に恋すること。
業が善い人から見ると、神は善く見えて、
業が悪い人から見るとき、神は悪く見える。
恋する神のため、我を修め、業を浄めていく。
マサシ 献身(ケンシン)とは、どういうものですか?
アキラ 献身は、我を献じて、神を愛すること。
業が多い人から見ると、神に我が見えて、
業が少ない人から見ると、神に愛が見える。
愛する神のため、我を捧げ、業を越えていく。
ホウキ 今の人界は、幽界の神々の、群雄割拠ですか?
マコト 人間の想念が集まり、想像した幽界が、
人界の神界の間に、魔として存在します。
人類は長きに渡って、神として想像された、
神を装う幽界の存在に、支配されて来ました。
幽界を信じ込み、神界に還って来ない。
自神を縛り付けた、人類の惨状を憂いて、
本物の神の根源神は、救い主を贈り込んで、
偽の神々を平らげ、魔を抹す事に決めました。
怖ろしい速さで、幽界が薄れて逝く中、
幽界の悪魔は、自らの生き残りを懸けて、
人類に干渉して、人の想念を集めています。
禁じ手を犯そうと、形振り構ってはいません。
金の龍であるとか、銀の龍であるとか、
悪魔の感染者は、歓心を買う言葉を囁き、
信者数を殖やして、関心を集めたがります。
魔が伝染した人々は、幽界と共に消されます。
オキ 日本を憂いる感染者も、幽界の使いですか?
マコト 外なる神を望み、内なる神に臨まない。
人類自ら想像した、邪なる神に操られて、
偽なる神に惑わされ、正なる神に還らない。
これを大いに嘆き、正神は幽界を消されます。
にもかかわらず、この期に及んでなお、
外なる神を演じて、信者を殖やすものは、
何を訴えていようと、魔に操られる感染者、
集めた被害者に応じて、地獄に落とされます。
つまり、日本人と最も掛け離れた者が、
目覚めよ、日本人と訴える末法の世です。
本物の日本人なら、誰に知られることなく、
独り静かに、艱難を容れて感謝に変えてます。
本来ならば、この類いを成敗するのは、
主の役ですが、何も言わなくなりました。
というのも、すでに審判が下ったからです。
この期に及び、感染したがる者は救えません。
イナバ 以前より、宗教団体は、減っていませんか?
マコト 幽界の存在は、神様として振る舞って、
人の歓心を買い、人の関心を興こします。
人々の想像により、生まれたものですから、
人の想念が無ければ、消えてしまうからです。
以前は、芸達者に憑いて、教団を造り、
奇跡を魅せ付けて、信者を集めてました。
教祖は魔力を授かり、使徒に見えましたが、
低級霊に遣われた後に、地獄に堕ちています。
現在は、口達者に憑いて、客間を作り、
噂話を垂れ流して、信者を集めています。
代表は秘密に与かり、使徒に見えてますが、
脱走霊に使われた後に、地獄に落とされます。
自らの存亡を懸けて、幽界は必死です。
昔よりも今の方が、手段を選んでません。
現在は、九分九厘を、魔が治めていますが、
ここから、一厘を経て、神が収めていきます。