第六章 第五七話 問答編
マサシ 自由の石工とは、どういうものですか?
アキラ 自由の石工とは、自由の仕組みのこと。
英語では、フリーメイソンと呼んでいる。
メイソンが、自覚しているかは、別として、
人類が、自由を学ぶため、神が遣わしたもの。
人類に自由を与えたのも、彼らであり、
人類から自由を奪ったのも、彼らだった。
人類が不自由なのは、彼らのせいであると、
人類が考える限り、人類は何も学べていない。
マサシ 自由が奪われると、どうなりますか?
アキラ 自由と共に、責任が奪われてしまって、
進化も選べず、退化も択べず、停滞する。
もし、現状を認めるなら、満足を維持する。
反対に、現状を認めないと、不満が沈滞する。
マサシ 自由が与えられると、どうなりますか?
アキラ 自由と共に、責任が与えられるために、
進化を選ぶか、退化を択ぶか、分岐する。
もし、責任を果たすなら、大きく進化する。
反対に、責任を果さないと、大きく退化する。
スクモ 数年前までは、神を認めなかったのに、
今では、当然のように、神意を観じます。
逆に、神を認めない方が、不自然な程です。
どうして、こんなにも、変わるのでしょうか?
マコト 現在の世は、いわゆる末法の世であり、
九分九厘まで、良くて天人、悪くて幽霊、
彼らが説く、歪んだ法に、酔い痴れてます。
世の人は、良くに駆られて、喜んで聴きます。
思うが儘が、想うが侭を、引き寄せて、
好きな教えを、好きなだけ、積み重ねた。
その報いで、世の人々は、彼らと同じ様に、
神から程遠い、生き物まで、為り果てました。
もし、このまま、神不在の進化を辿り、
彼らを、神の代理人として、崇めるなら、
彼ら同様、人類の進化は、逝き詰まります。
遠い未来に、欲の頂で、秘密を知るでしょう。
真理とは、後で思い知る、欲の秘密を、
論に拠って、手繰り寄せて、神に還る法。
数億年を、数年に縮め、効果は絶大ですが、
彼らに、頼らないことが、不可欠になります。
ウゼン 救世主は、陰と陽の組で現れるのですか?
マコト ある型が、日の当たる、道を進むとき、
もう片方が、日の外れる、道を進みます。
順の道が、善人として、称賛を享けるほど、
逆の道では、悪人として、非難を受けてます。
当初、あの型が、人々の限界を越えて、
世界を破壊し尽す、悪人を演じるならば、
自ずから、この方は、世間の常識を踏まえ、
あの型を擁護する、善人を演じる積りでした。
実際、あの型は、人々の限界を踏まえ、
世界を再生し直す、善人を演じています。
自ずから、この方は、世間の常識を越えて、
あの型を糾弾する、悪人を演じざる得ません。
あの型が、善人の配役を選ばれたのは、
少数の善人の回心は、この方に任されて、
大多数の悪人の改心を、優先したからです。
予想より、人類の堕落が酷かったと言えます。
ヒゼン 互いに、相手こそ悪魔と、言い張るのですか?
マコト 救いの教えの型が、悟りの訓えの方に、
この方の解く教えは、悪魔の訓えであり、
救いを求める者は、決して近づくべからず。
その様に説くことは、神から許されています。
何故なら、救いの誘いを欲するならば、
知恵よりも、信仰を重んじるべきであり、
主の絶対性を、介すことが必要だからです。
神の指示を聞き、信じてこそ合格になります。
悟りの訓えの型が、救いの教えの方に、
この方の説く訓えは、悪魔の教えであり、
悟りを求める者は、断じて近づくべからず。
その様に解くことは、神から赦されてません。
何故なら、悟りの導きを欲するならば、
信仰よりも、知恵を重んじるべきであり、
主の神通力を、解すことが必須だからです。
神の奇跡を見て、信じれば不合格になります。
ヒゴ 救いと悟りの、一挙両得は、出来ませんか?
マコト 得を望み、思いのまま、考えてしまい、
徳に臨んで、在りのまま、認められない。
その瞬間、悟りが離れ、迷いが生まれます。
その性根が、直る日まで、絶対に悟れません。
人類を救うために、神様から贈られた、
主の救いの手を、魔の手として断ったら、
当然のことながら、神は救ってくれません。
いつ死のうとも、仕方が無いことになります。
神の救いが消えて、漸く本当の意味で、
生かして頂いて、有り難いと実感します。
断ったのに、生きているのは、奇跡であり、
死を覚悟してこそ、真に覚醒すると言えます。
即ち、朝に生まれて、夜に死んでいく。
一日一生を続けるのが、悟りの境地です。
そこまで至って、悟りこそが究極の救いと、
本当の意味で、救いと悟りの両得が適います。
キイ 一体、誰が天魔なのか、主に尋ねて来ます。
マコト 神様とは、善悪を越えている空であり、
本来ならば、絶対の善とは言えませんが、
空のままでは、人の子が脅えてしまうため、
魔を作り出して、悪の面を負ってもらいます。
救世主は、人の子を、天国に誘うため、
善なる神を信じて、善を為せと説きます。
そうなると当然、悪を被る役が必要になり、
彼が悪魔であると、適任な魔を作り出します。
そう言われても、善人にしか見えない。
本当に魔ですかと、人の子に問われると、
背後が悪魔であると、救い主は答えますが、
良い子は、先生を問い詰めては、往けません。
今後は、本当の悪魔は誰なのかという、
魔女狩りのような、愚かな問いは止めて、
必要なら私のことを、魔と罵れば良いです。
誰が天魔か責める、この我こそ悪魔ですから。